国見の監督として高校選手権6回の優勝など数々の実績を残し、1月7日に死去した小嶺忠敏氏。高校サッカー史に残る名将の死に、日本サッカー協会(JFA)の田嶋幸三会長も追悼のコメントを発表した。

上写真=1990年度、国見を率いて2回目の優勝を果たした小嶺監督(写真◎サッカーマガジン)

高校選手権の開催中に76歳で死去

 長崎県出身で、母校の島原商を率いてインターハイ優勝に導き、その後に赴任した国見では帝京(東京)と並ぶ戦後最多タイの選手権優勝6回を成し遂げるなど、高校サッカーに大きな足跡を残した小嶺氏。近年は長崎総科大附で監督を務め、現在は開催中の第100回高校選手権でも監督として登録されているが、体調不良を理由にベンチ入りしておらず、1月7日に亡くなった。享年76歳。

 多くのプロ選手を輩出するなど、高校年代の育成において群を抜く実績を残した名将の死に、多くの関係者が追悼の意を示している。JFAの田嶋幸三会長も以下のようにコメントを発表した。

「小嶺先生の訃報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。

 小嶺先生は、島原商業高校サッカー部を強化するために、高校サッカーの強豪校との対戦を日常的に行なう必要性を感じ、自らマイクロバスを運転して全国各地への遠征を続けられました。そういった並々ならぬご努力が実り、島原商業は1977年のインターハイで優勝、1984年には九州勢として初めて全国高校サッカー選手権を制覇しました。

 国見高校の監督になってからも高校選手権で何度も優勝に導かれました。それまで優勝校は限られた地域のチームがその多くを占めていましたが、その後、全国各地から優勝校が出てくるようになりました。まさに高校サッカー発展の大功労者でした。

 U-17日本代表監督としては、1993年に日本で開催したFIFA U-17世界選手権でチームをベスト8に導くとともに、のちのSAMURAI BLUE(日本代表)の中核を担う中田英寿さん、宮本恒靖さんらを育てられました。

 高校サッカー部の監督としてS級ライセンスを取得されるなど、名監督と言われながらも常に学ぶことをやめないその謙虚な姿勢に私も深い感銘を受けました。小嶺先生に倣い、多くの高校サッカーの指導者がS級ライセンスを取得するなど、全国の指導者をリードしてこられました。小嶺先生が蒔かれた種が日本各地で実り、多くの日本代表選手が生まれることにつながったと思います。
 
 小嶺先生はサッカーに人生のすべてを捧げた方でした。心から哀悼の意を表します。そして、ありがとうございました」


This article is a sponsored article by
''.