11月3日は、日本サッカー史に残る伝説のゴールが生まれた日だ。1992年、広島県で開催されたアジアカップ。日本は開催国ながらグループステージ敗退の危機に陥っていたが、カズ(三浦知良)が起死回生の一撃を決める。その瞬間、スタジアムだけでなく、山も大きく揺れた――。

上写真=85分に決まったカズの決勝ゴール。エリア内右サイドから右足を振り抜いた(写真◎サッカーマガジン)

勝たなければグループステージ敗退

 アジア最強の国を決める4年に一度の大会として、現在は日本代表のビッグイベントの一つに位置付けられているアジアカップだが、以前はそうではなかった。1956年に第1回大会が開催されて以降の9大会中6大会で、日本は予選にすら参加していない。1988年の第9回大会で初めて予選を突破したものの、本大会は大学生主体のB代表で臨み、グループステージで敗退している。

 1992年に広島県で開催されたアジアカップは、地元開催とあって最強メンバーで臨むことになった。しかし、同年3月に就任したハンス・オフト監督は「私の仕事と我々の目標は、来年のアメリカ・ワールドカップ予選だ」と強調。アジアカップもあくまで、そのプロセスという姿勢だった。

 当時は8カ国の参加で、4チームずつ2グループに分かれてグループステージを戦い、上位2チームが準決勝以降のトーナメントに勝ち上がる大会方式だった。10月30日の初戦でUAE(アラブ首長国連邦)と0-0で引き分けた日本は、11月1日の第2戦(当時は中1日という、現在では考えられない過密日程だった)で北朝鮮と対戦し、前半に先制点を奪われる。69分にPKを獲得するも、FWカズが右ポストに当てて失敗。だが80分にFW中山雅史が同点ゴールを決め、1-1の引き分けに持ち込んだ。

 11月3日、広島ビッグアーチ(現エディオンスタジアム広島)でのイランとの第3戦。この日の第1試合でUAEが北朝鮮を下したため、日本は勝たなければグループステージ敗退という状況になった。強化の一環とはいえ、グループステージ突破は開催国として最低限のノルマ。しかし、引き分け以上で突破できるイランの守りを崩せず、前半は0-0で終える。

 ハーフタイムにオフト監督は、0-0のまま試合が進んだ場合に備えて「残り20分を切ったら前線からプレッシャーをかける。残り10分になったら後ろには3人だけ残し、守備陣も攻めに出ろ」と指示を出している。後半、53分にイランが退場者を出し、日本は数的優位に立ったものの、なかなか得点できないまま時計の針は進んだ。


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