1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第39回は1989年に、20年ぶりに国立競技場の最多観客数を塗り替えた背景について綴る。

上写真=1989年に国立競技場で行なわれたダブルヘッダー。ヤマハは日産自動車と対戦した(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

2・26のダブルヘッダー

 1965年にスタートしたアマチュアの日本サッカーリーグ(JSL)において、4年目のシーズンにあたる1968年にメキシコ・オリンピックがあり、ここで日本代表が銅メダルを獲得して「サッカーブーム」と呼ばれるほど、サッカーへの関心が高まった。

 オリンピック明けの同年11月に再開されたJSLで、三菱重工対ヤンマーディーゼルの試合には、メキシコでの快挙の原動力となった三菱の杉山隆一、ヤンマーの釜本邦茂というスタープレーヤーの存在もあり、国立競技場に4万人を集め観客動員数の新記録を作った。

 当時は販売されたチケットの実数による厳密な有料入場者数ではなく、関係者の目視による測定だったため「4万」というアバウトな数字だったが、それでも過去最多であることは誰の目にも明らかだった。

 しかし、その後は日本代表の低迷もあってJSLの人気は先細りとなり、記録が塗り替えられることはなかった。10年、20年と過ぎてもJSLの最多観客数は4万人のままだった。

 そこで1988年にJSLの人気回復のために「日本リーグ活性化委員会」が立ち上げられた。ここからプロ化への一歩を踏み出すことになるのだが、この年にJSL総務主事に就任した後のJリーグ初代チェアマン、川淵三郎を中心に当面のリーグを活性化し、話題を提供することが重要だとの認識に至る。そのために集客能力のある国立競技にJSLで多くの観客を集めようというアイディアが出された。

 1989年、元日の天皇杯決勝のあと、中断期間をはさんでJSLの後期が2月26日に再開する。その日をターゲットとして、国立で読売クラブ対三菱、ヤマハ発動機対日産のダブルヘッダーを開催することになった。ヤマハ対日産はヤマハのホームゲームにもかかわらず国立で開催。観客数の低迷はリーグ全体にとって大きな問題であり、各チームともこの計画に賛同し、協力した。

 当初、計画は3万人を集客することを目標として始まり、採算は度外視して首都圏の私鉄、営団地下鉄の車内づり広告、新聞各紙での告知広告を打った。さらに首都圏の各都県に所属する第2種(高校年代)から、第3種(中学年代)、第4種(小学生年代)、第5種(女子)までの各チームに無料招待券を配布。静岡など来場が期待できるところにも同様に案内を送った。

 車内づり広告には明石家さんまの『頼むさかい、日本サッカーリーグの選手らに満員の国立競技場で、プレイさせてやってや。ファン代表/明石家さんま』というメッセージ付きポスターが並び、PRを行なった。計画は次第に『エスカレート』して集客目標も「3万人」から「国立を満員に」と変わっていった。


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