連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回は、ドイツの1強時代に風穴を開け、頂点を極めたクラブを取り上げる。的確な補強と指揮官の手腕で、欧州王者にまで上り詰めた90年代中期のドルトムントだ。

上写真=96-97のCL優勝を果たしたドルトムント。ブンデスリーガ2連覇に続く3年連続のタイトル獲得で、この後にトヨタカップも制して世界一に輝いた(写真◎Getty Images)

文◎北條 聡 写真◎Getty Images

絶対王者の対抗馬

 どんな強者にも、死角(弱点)はある。不死身のジークフリート(ゲルマン民族の伝説的英雄)も背中にある、葉っぱ1枚分の急所を狙われ、死に絶えた。

 中世ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』にある話だ。どこに急所があって、どうすればそこを一突きできるか。かの有名な兵法書『孫子』に、こうある。

 敵を知り己を知れば、百戦危うからず――。かつてドルトムント(ドイツ)をヨーロッパで屈指の強豪へ引き上げた指揮官は、その極意に通じる人だった。

 用意周到。備えあれば、憂いなし。その掟に従う一団は、無敵の巨人を抜き、ついにはヨーロッパの頂点まで駆け上がった。

 1強多弱――と言っては大げさだろうか。いや、それに近い勢力図が、ドイツ・ブンデスリーガのお約束と言ってもいい。いつの時代にも、動かぬ本命がいる。絶対王者のバイエルンだ。対抗馬は二転三転。めまぐるしく入れ替わってきた。

 ブンデスリーガ(プロ)の創設は1963年。それ以降、ドルトムントが覇権争いの対抗馬に躍り出たことは一度もなかった。転機は1990年代に入ってからだ。ゲルト・ニーバウム新会長が積極的な投資に乗り出し、次第に戦力を整えていった。

 補強にあたって目をつけたのが国外組(ドイツ人)だ。その多くはイタリア・セリエAのクラブに籍を置き、なかなかカルチョの水になじめず、ベンチでくすぶる者だった。そこでドルトムントは毎年のように「セリエA組」を引き抜いていく。FWのリードレ、MFのメラー、DFのザマー、ロイター、コーラーらがそうだ。

 いずれもドイツ代表の面々で、実力的には申し分ない。覇権争いへ食い込むのに十分な陣容が整いつつあった。ただし、バイエルンの上を行くには、タレント力以外の何かが必要だった。幸い、ドルトムントには、その「何か」があった。ベンチの優れたマネジメントだ。それが無敵の巨人を打ち負かす絶好の切り札となった。

的を射た分析力

 1991年夏、低迷にあえぐドルトムントは、ある男を新監督に迎え入れた。オットマール・ヒッツフェルトである。当時ドイツ国内で、その名を知る者はほぼいなかった。就任する直前まではスイスの強豪グラスホッパーで指揮を執り、国内リーグで連覇を果たしている。

「スイス人監督が、ドイツにやって来た」

 就任当初は、そう報じられたこともある。国籍はドイツだ。だがスイス暮らしが長く、スイス訛りのドイツ語を話した。指導者の道を歩み始めたのも、ドイツではなく、スイスにおいてだった。ドルトムントにやって来たばかりの頃はドイツのサッカー用語を学び直したほどだ。

 さらに、スイスの大学に通い、数学教師の免許を取得した変わり種。合理的な采配に数学的センスが表れ、優れた人心掌握術には、教師の一面が見て取れた。スイス風ドイツ人、いやドイツ風スイス人か。ともあれ、異色の指揮官は就任1年目から辣腕ぶりを発揮する。いきなり優勝争いを演じてみせたからだ。

 指導者としての一大特徴は、敵を丸裸にして巧みに弱点を見抜く卓抜した分析力にあった。そこから攻略の手立てを練り上げ、それをチームに落とし込んでいく。戦術家とも言えるが、こだわるのはディテール(細部)だった。カウンターかポゼッションか、といった類のものではない。

 狙い目は右か左か、または手前か裏か、はたまた地上戦か空中戦か――。敵の弱点に応じて、上手に微調整を施していく。的の絞り方は具体的で、仕掛け(急所のえぐり方)も細工十分。各々の動きが1つの目的に向かって、高密度で連動していく。相互作用に無駄がないわけだ。

 しかも、それを実行するのは、いずれ劣らぬ実力者。やると決めたら、とことんやり抜くドイツ人気質も相まって、その効果は2倍にも3倍にもなった。これなら、覇権争いの対抗馬に名乗りを上げても何ら不思議はない。そして、アメリカ・ワールドカップ直後の1994ー1995シーズンに大本命のバイエルンを蹴散らし、ついにブンデスリーガの栄冠をつかみ取った。


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