1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第21回は、W杯に出場したブラジル代表DFの加入と日産自動車の変化について綴る。

上写真=観客が少なかったJSL時代、別格のプレーで日産のチーム力アップに貢献したオスカー。引退後は監督を務め、Jリーグでも京都の監督を務めた(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

スペシャルライセンス・プレーヤーの誕生

 長く西ドイツでプレーした奥寺康彦が帰国した1986年、彼を受け入れる必要性もあり、プロ化への機運が高まった。まずは古河の奥寺と、当時国内のトッププレーヤーだった日産の木村和司の2人が「スペシャルライセンス・プレーヤー」という名でプロ契約が認められる。

大きなうねりの中で迎えた翌シーズンには「スペシャル」がなくなって、「ライセンスプレーヤー」の名で一気に72人のプロ選手が生まれた。

 これに伴って各チームの外国人選手の補強もこれまでにない活発さを見せたが、なかでも日本サッカー界を驚かせたのは、日産がブラジルから呼び寄せたジョゼ・オスカル・ベルナルジ、日本での登録名は「オスカー」だった。

 当時まだ33歳のオスカーは、86年までセレソン(ブラジル代表)でプレーし、78年、82年、86年と3度のワールドカップにも出場したセンターバック。優勝は逃したものの、大会のベストチームと言われた82年のセレソンでも、レギュラーとしてジーコ、ソクラテスらの豪華攻撃陣を支えた。

 セレソンのカピタン(キャプテン)も務めるなど人格面も定評があり、のちに93年にJリーグが開幕すると、数々のスタープレーヤーが日本でプレーすることになるが、この時点では間違いなく日本サッカー史上最高の外国人選手と言ってよかった。

 その移籍を成功させたのは、監督としての采配やチームづくりもさることながら、ゼネラルマネジャーとしても優れた手腕を発揮していた加茂周。自らブラジルに渡り、交渉をまとめてきた。

 日本でのプレーに関してオスカー本人は「日産入りの理由は、将来コーチ、監督をやってみたいのと、日本という我々にとっては不思議な国で、異なった文化に触れてみたいという二点です。特に、私の経験が日本のサッカーにどれだけ役に立つか試してみたい」(サッカーマガジン・87年10月号)と語った。

 入団会見に臨んだオスカーとともに現れたのは、ロペス・ワグネル・アウグスト。のちに帰化して日本代表になり、98年フランスW杯にも出場した、あの呂比須ワグナーだった。当時まだ18歳で、ここからキャリアを積み上げていくことになる。


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