1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第20回は画期的だった2部リーグの誕生について綴る。

上写真=JSL2部でプレーする読売クラブの松木安太郎(中央)。2部からスタートした読売クは昇格後にJSL1部で5回の優勝を飾り、日本サッカー界をけん引(写真は77年/サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

画期的だった下部リーグ発足

 1965年のスタートから7年を経て、日本リーグ(JSL)は変革の時を迎えていた。

「強豪チーム同士が年間を通じて対戦できる総当たりのリーグ戦が必要」という、デットマール・クラマーの提言をもとに発足し、競技のレベルアップに効果を上げてきたJSLだが、当初から変わらない8チームによるリーグ戦では試合数が少なかった。さらに、JSL所属チームは強化されるが、そこに加われなかったチームとの格差が広がるという課題も浮かび上がった。

 JSLを目指すチームにとって、昇格は非常に困難だった。一発勝負の全国社会人大会で、優勝か準優勝しなければ挑戦権を得られず、入れ替え戦に進んでも、2試合を戦って2引き分け、もしくは1勝1敗で得失点差が同じ場合は敗退と、JSLチームに有利なレギュレーションだったからだ。

 このため発足後の7シーズンで入れ替わりがあったのは、66年の名古屋相互銀行(名相銀)→日本鋼管と、翌67年の豊田織機→名相銀の2例のみで、68年以降は同じ顔ぶれのままだった。

 そうした事情を鑑みて71年、社会人の有力チームが話し合い、JSLの下部リーグとして 全国社会人リーグを創設することをJSLおよび日本協会(JFA)に提案。これを受けて、その必要性を感じていたJFAも、さまざまな問題を抱えながらも、翌72年度からJSL2部としての発足を目指して動き出した。

 財政的な問題や各地との連携など、不十分な点への懸念はあったが、JSL発足時も同様で、とりあえず見切り発車してから形にしている。JSL2部もまずは実践して、足りないところを補う積極的な姿勢で事を起こした。

 ヨーロッパの状況などを見れば2部、3部リーグがあるのは当たり前だが、アマチュアで全国リーグを始めたのもサッカーが最初という日本のスポーツ界では、下部リーグを組織したことは画期的だった。


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