1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第16回は圧倒的な攻撃力を誇った1977年のフジタ工業について綴る。

上写真=驚異の得点力でフジタ工業を初優勝に導いたカルバリオ(右)。その攻撃サッカーは魅力的だったが、「目撃者」の数は限られた(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

1試合平均3・56点を記録

 1シーズン18試合を戦って64得点、1試合平均3・56点を挙げたチームがある。日本リーグ(JSL)1977年シーズンのフジタ工業クラブ。もちろん、JSL27年の歴史で最多だ。93年にスタートしたJリーグでも、最多得点は98年にジュビロ磐田が挙げた34試合(1st、2ndステージ合計)107得点、1試合平均では3・15点なので、及ばない。日本サッカー史上、トップリーグで1試合あたり最も多くのゴールを挙げたチームということになる。

 藤和不動産として1968年に創部、4年目の1972年にJSL昇格を果たし、75年から親会社のフジタ工業のチームとして、ユニフォームもそれまでのエンジから黄色に変えた。そんな変遷を経て創部10年目、攻撃力を前面に押し出したサッカーで初めてリーグを制覇(77年)。天皇杯(第57回)も優勝して2冠を獲得した。

 その攻撃力を支えたのが、MFアデマール・マリーニョ、FWカルバリオ、セイハン比嘉の「ブラジルトリオ」だった。ストライカーのカルバリオは23ゴールを挙げ、歴代でも最多の数字で得点王に輝く。マリーニョも1試合平均1得点となる18ゴール、右ウイングの比嘉はゲームメーカーの古前田充とともに7アシストを記録して、アシスト王に輝いた。

 フジタ工業の攻撃サッカーは圧巻だった。中盤で豊富な運動量を見せた渡辺三男は、20代前半にはFWとして日本代表にも選ばれており、左サイドバック(SB)の原正弾も元FWで日本代表候補。リベロの脇裕司も以前は攻撃を組み立てるMFで、ストッパーの今井敬三、右SB園部勉は日本代表でも積極的に前へ飛び出す、攻撃的DFのはしりと言える選手だった。すべてのポジションに攻撃の能力を備えた選手がそろっていたのだ。

 技術、パスセンスのある古前田を起点にマリーニョ、カルバリオが絡んでの中央突破に加え、右から園部、比嘉、左から原、パワフルなFW小滝勇一が崩して、サイド攻撃からも多くのチャンスが生まれている。カルバリオ、マリーニョは個人技でも相手DFを翻弄し、面白いように得点を重ねた。

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