今季限りで現役を引退する京都DF田中マルクス闘莉王が1日、引退記者会見を行なった。ブラジルから来日して22年、プロ19年間のキャリアでの思い出の試合や出来事などを振り返り、涙ぐむ場面も見られた。

上写真=サプライズで登場した中澤佑二氏、楢崎正剛氏から花束を贈られた闘莉王。会場には多くの報道陣が詰めかけた(写真◎石倉利英)

「炎を最後のエネルギーに変えて」

 冒頭の質問で引退を決断した経緯について聞かれた闘莉王は、「自分の中で決めていたことがありました。燃えている自分の心の炎が少しでも消えかかりそうになったら、どんな時であれ、年齢も関係なく、引退しようと(決めていた)。サッカーに対して失礼なことのないように、やっていかなければいけないと決めていた」と告白。自らのプレーを支えてきた『闘志』が揺らいだことが、きっかけだと語った。

 引退を決断したのは昨年の終わり頃だったという。「そう(炎が消えかかっていると)感じて、やっぱり引退しなければいけないな、と。最後の1年は、いままで敵として戦ってきた相手チームのサポーターにも、あいさつしたいと思った。少しでも感謝の気持ちを伝えたかったので、今年を最後のシーズンにしよう、消えかかっていた炎を最後のエネルギーに変えて1年、やりました」と語り、引退を決断しながらシーズンを戦っていたと明かした。

 1981年4月24日にブラジルで生まれた闘莉王は、祖父母が日本出身の日系3世(ブラジル国籍時代のフルネームは「マルクス・トゥーリオ・リュウジ・ムルザニ・タナカ」)。1998年に留学生として来日して渋谷幕張高(千葉)に入学し、卒業後の2001年に広島に加入した。02年に広島がJ2に降格したため、03年は水戸に期限付き移籍。この年に日本国籍を取得し、「田中マルクス闘莉王」となった。

 04年に浦和に完全移籍してJ1優勝、AFCチャンピオンズリーグ優勝など数々のタイトル獲得に貢献し、06年にはJリーグMVPを受賞。10年に移籍した名古屋でも1年目にJ1優勝に導いた。15年限りで一度は名古屋を退団したものの、翌年途中に復帰し、17年からは京都でプレー。年代別代表でも、04年にはU-23代表の一員としてアテネ五輪に出場し、06年夏以降はA代表の主力に定着。10年南アフリカW杯ではベスト16進出の立役者の一人となった。

画像: 時折、言葉を詰まらせながら、多くの人々への感謝を口にした(写真◎石倉利英)

時折、言葉を詰まらせながら、多くの人々への感謝を口にした(写真◎石倉利英)

 最も思い出に残っている試合には、その南アフリカW杯で敗退したパラグアイ戦を挙げた。0-0で突入したPK戦の3人目で駒野友一が外したが、「次のキッカーが自分だったこともあって(※パラグアイが先攻だったため、日本の5人目が蹴る前に決着がついたが、その5人目が闘莉王だった)、自分のところに回ってきていたら、どうだったんだろう、と。それも神様の自分に対する嫌がらせかな。外すなら、自分でもよかったんじゃないか」と当時を振り返った。

 さらに「(PKを)蹴ることができず、どれだけの夜を寝られずに過ごしたか。『あのPK、こんなボールを蹴りたいな』『こんなキックをしたい』と思ったことは、いままでになかった。あの瞬間が『…』となってしまうことが、すごく印象に残っています」と続けた。5人目に指名したのは岡田武史監督で、「あれだけPKを外していたにもかかわらず、岡田さんに『お前が蹴るぞ』と言っていただき、疲れていたのか、ボーッとしていたのか分かりませんが、すぐ『はい』と言ってしまった。どうかしていたんじゃないか」と振り返りつつ、「でも結末を見られずに終わってしまった。あの瞬間が印象的です」と続けた。

 気になるセカンドキャリアについては、「まだ考えていません。とりあえずブラジルに帰って、たくさんビールを飲んで、たくさん肉を食べて、10キロくらい太って、皆さんが少しでも笑ってくれるような姿を見せられれば」と笑わせた。会見の最後にはクラブと日本代表で最終ラインを支えた、楢崎正剛氏と中澤佑二氏がサプライズで登場。最後は2人から受け取った花束を両手に、報道陣に深々と頭を下げ、引退会見を締めくくった。

取材・写真◎石倉利英

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