イニエスタという世界的名手の存在を、ぜひJリーグのさらなる発展につなげてほしい(写真◎J.LEAGUE PHOTOS)

Jリーグの開幕25周年を記念して、当時を知る記者が四半世紀を振り返っていくこのコラムの7回目のテーマは、「外国籍選手」。イニエスタ、トーレスの加入でヨーロッパから注目を集める日本のトップリーグは、どんなスターとともに歩んできたのか。その最高峰に立つのはやはり、あの男しかいないだろう。そして、次の伝説を生み出す責務が、Jリーグにはある――。

文◎平澤大輔(元サッカーマガジン編集長) 写真◎J.LEAGUE PHOTOS

祭りなら、踊ろう

アンドレス・イニエスタがヴィッセル神戸に、フェルナンド・トーレスがサガン鳥栖にやって来て、久々の「外国籍選手祭り」である。祭りならみんなで思い切り踊ろう。

25年もリーグ戦が続いていると、それこそ数えきれないほどの外国籍選手がピッチで踊ってきた。ジーコ(鹿島)、リトバルスキ(市原)、リネカー(名古屋)、ディアス(横浜M)らワールドクラスのスターの競演に心からワクワクした黎明期から順に、思いを馳せてみた。

こうなるともう止まらない。我慢できないので、思いつくままに並べてみる(順不同。所属は主なクラブです)。

ブッフバルト(浦和)、ベギリスタイン(浦和)、ストイコビッチ(名古屋)、スキラッチ(磐田)、ファネンブルク(磐田)、ストイチコフ(柏)、ジョルジーニョ(名古屋)、デュリックス(名古屋)、ビスマルク(V川崎)、ペトロビッチ(浦和)、ドニゼッチ(浦和)、エジムンド(東京V)、ポンテ(浦和)、ハシェック(広島)、カレカ(柏)、洪明甫(平塚)、フランサ(柏)、朴智星(京都)、エムボマ(G大阪)、フッキ(川崎F)、黄善洪(柏)、柳想鐵(横浜FM)、アマラオ(FC東京)、サリナス(横浜M)、アマリージャ(横浜F)、シジマール(清水)、マッサーロ(清水)、鄭大世(川崎F)、トーレス(名古屋)、盧廷潤(広島)、ラウドルップ(神戸)、マルキーニョス(横浜FM)、ウェズレイ(名古屋)、ルーカス(FC東京)、シジクレイ(京都)、ドゥトラ(横浜FM)、バレー(甲府)、マグノ・アウベス(G大阪)

……きりがないのでこのあたりで思い出に浸るのをやめておくが、とにかく彼らは頼もしく、誇らしく、華やかだった。

こうやって名前を見ていて思い出すのだが、現在の「イニエスタ&トーレス級」の衝撃を受けたことは過去にもあった。「世界一の選手が続々とJクラブ入り」という贅沢極まりない現象が起こった1995年前後のことである。

セレソンがやってきた、ヤア!ヤア!ヤア!

94年のアメリカ・ワールドカップでチャンピオンになったのはブラジル。その世界一の高みに立った輝かしいメンバーの実に9人が、Jリーグにこぞってやって来たのである。

細かく言えば、ワールドカップの前、94年の開幕時にはすでに清水にDFロナウド(ワールドカップの登録名はロナウダン)が所属していた。続けて大会後には鹿島にMFレオナルドがやって来て、95年には横浜FにMFセザール・サンパイオ、MFジーニョが加わった。同じタイミングでFWミューレルが柏の、DFジョルジーニョが鹿島の、GKジルマールがC大阪の一員となり、95年後期からはMFドゥンガが磐田を改革した。後に00年にはFWベベットも鹿島でプレーしている。

時代が違うのを承知で例えて言うなら、先日のロシア・ワールドカップで優勝したフランスから、来年あたりにDFバラン、MFグリーズマン、MFカンテ、MFエムバペ、FWジルー、DFパバール、MFポグバ、GKロリス、FWデンベレがJリーグでプレーしに来るようなものである。

もちろん、多くの外国籍選手が次から次へとピッチを彩ったのは確かだ。ただ、セザール・サンパイオがコンビを組んだ山口素弘に世界基準を植え付け、ジョルジーニョのキャプテンシーは小笠原満男が引き継ぎ、ドゥンガの叱咤が福西崇史を代表レベルに引き上げたように、この頃のカナリア軍団がどれだけ日本の選手を鍛え上げたことか。

そんなセレソンたちの「源流」であり、歴代の外国籍選手の中で最も深遠で、広大で、強固な足跡を残したのは、やはりこの人しかいないと思う。

アルツール・アンツネス・コインブラ。

ジーコその人である。

ジーコは超絶リアリスティック

91年に当時日本リーグ2部の住友金属入り。現役を一度退いたあとの復帰という状況であっても、あのジーコが日本に? それも2部のスミキンに? とインパクトは強烈過ぎた。良くも悪くもうぶだった私たちの前に忽然と現れた魔法のような「ジーコ来日」は、もしかしたら今回のイニエスタでも凌駕できないかもしれない。

ご存知の通り、Jリーグ開幕時にスーパースターとしてリーグそのものの顔となり、リーグ1年目の鹿島躍進の立役者で、のちには総監督も務めた。選手と監督(または総監督)の両方の立場でJリーグを戦ったのは、ブッフバルト(浦和)、ハシェック(神戸)、ストイコビッチ(名古屋)、ゼリコ・ペトロビッチ(浦和)、ジョルジーニョ(鹿島)、尹晶煥(鳥栖、C大阪)らがいるが、さすがに日本代表の監督としても指揮を執ったのはジーコだけ。最高峰のキャリアであるのは間違いない。

そんなジーコへの取材で忘れられないのが、2004年、サッカーマガジンの1000号(11月23日号)を記念して行ったインタビューだ。ジーコはそのとき日本代表の監督。対談の相手に岡田武史さん(当時横浜FM監督)を迎え、私が司会進行を担当した。

岡田さんがジーコに、プロの監督としてのあり方を聞くのが主なテーマとなったが、岡田さんも私も驚いたのが、ジーコの口からこんな一言が出てきたときだった。

「実は美しいサッカーは好みじゃない。それよりもゴールに向かって突き進む姿勢が相手にとって怖いんですよね」

華麗で芸術的で美しく、というのがそのフットボール観だと勝手に思い込んでいたところに、正反対の概念が言葉の塊になって飛んできた。超絶リアリスティック。続けてこんな風に話している。

「本当に得点が取れて美しいのは、シンプルに、2本から3本のパスでシュートまでいく形。局面によってはドリブルで崩していく。シンプルだから美しいのであって、ボールをこね回したりする小手先だけの技術は評価できない」

いまも変わらずこのジーコイズムが息づいていることは、鹿島の選手たちのピッチでの振る舞いを見ていれば分かるだろう。

そんなジーコが最近、日本に戻ってきた。7月17日、鹿島のテクニカルディレクターに就任することが発表された。25年経っても帰る場所がある。そのことがJリーグの一つの価値を示しているのではないだろうか。

ジーコはクラブを通じてこう表明している。

「アントラーズのために全身全霊をささげ、一切の妥協はしません」

そういえば昔から、鹿島の歴代の選手やスタッフは誰もがみんな、「負けず嫌いでプロにまでなったけれどジーコには敵わない」と口を揃えていた。25年経っても、妥協など許さない究極の負けず嫌いは変わっていない。

変わらない強さ。言うのは簡単だが、ジーコはそれを本当に実践している。彼の凄みを改めて感じて震えているところだ。

だからもし、例えばの話、イニエスタがこれから素晴らしいプレーを日本でたっぷりと披露して、そのあとにいつか神戸の監督となってそのDNAを植え付け、さらにその先の未来に日本代表の監督に就任したりしたら…。

2018年夏、「イニエスタ狂想曲」に心地よく身を委ねながら、Jリーグがそんな次の伝説的なストーリーを紡ぐことができる土壌になってほしいと切に願っている。

そのためには、「さらに25年後に帰ってくることのできる場所」を作ることが大切だ。いまのJリーグにその準備はできているだろうか。


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