苦しんだ末にメキシコへ
――当時の日本代表の大きな目標は1964年の東京オリンピックだったと思います。大会について印象に残っていることは何でしょうか。松本さんにとっては悔しい思い出でしょうが…。
松本 そうですね。僕は前年のヨーロッパ遠征で、西ドイツで最初に向こうのユース代表と試合をすることになった。そのチームにいたのが(ベルティ・)フォクツですよ(74年ワールドカップ優勝メンバー)。彼の「カニばさみ」にやられて左ヒザのじん帯を切ってしまった。それで50日間、ギブスを付けるはめに。だから東京オリンピックは出場できなかった。隆さんはやっぱりアルゼンチン戦が印象深いのかな。
杉山 その試合が、自分の名前が表に出るようになったきっかけだからね。アルゼンチンに逆転勝ちして点も取って、一気に知られるようになった(〇3-2/グループステージ初戦)。
――アルゼンチンのプロから誘われ、「20万ドルの足」と騒がれました。釜本さんもアルゼンチン戦ですか。
釜本 いや、僕は何もしてないからね。
――川淵(三郎)さんの得点をアシストしたのでは?
釜本 そうやけど、まあ、面白くなかった。自分が得点してないからね(笑)
松本 これぞ、まさしくストライカーですよ。
――当時はまだ、杉山さんとのコンビは出来上がっていなかったのでしょうか。
釜本 東京オリンピックの前まで、僕はまだレギュラーじゃなかったからね。渡辺正さんがケガをされて、その後からだから。だから当時はまだ一緒にボールを蹴るなんてこともなかったですよ。息が合うようになってきたのは、そのずっと後ですね。
松本 隆さんの活躍ということで言えば、東京オリンピックももちろんなんだけど、やはり最大の貢献はメキシコ・オリンピックの予選で、最後に(南)ベトナムから決勝点を取ったことじゃないかな。左肩をケガしていながら1点を決めてね。あれがなければメキシコへの道が閉ざされたわけですから。
杉山 ムルデカ大会とかではベトナムには2点差くらいで勝っていた。それで気持ちの面で私たちには安易なところがあったのだと思います。だからゴールも入りそうで入らなかった。それがたまたまカウンターみたいな形で一発入ったんですよ。
釜本 僕もやっぱり、あの試合は印象深い。最後に杉山さんが点を入れて、やっとのことでメキシコ行きを決めたんですから。最後の最後で頑張って決めてくれた。そういう意味でもこの方はあのチームに外せない、なくてはならない選手なんですよ。
――あの試合、釜本さんは自分で決められなくて焦りはなかったのでしょうか。
釜本 それはね、試合の最後のほうはさすがに焦りましたよ。いくら打っても入らないんで、今日はツキがないなあと(苦笑)
――最終的には突破するわけですが、メキシコ五輪予選は本当に死闘でした。韓国戦にしても非常に激しい試合になりました。
松本 3-3でしたね。前半は輝さんと隆さんで、2―0でリードした土砂降りの雨での試合でね。後半追いつかれて。釜本が1点を決めたけど、また3―3にされた。
――このときも杉山さん、釜本さんが決めていますね。
松本 やっぱりこの2人の能力、運動神経はすごい。釜本はきっと、どんなスポーツでも一流になっていますよ。野球やっていたら、王、長嶋の間を打っていただろうね。隆さんで驚かされたのは、ヨーロッパ遠征の後ですよ。僕はヒザのじん帯切って松葉杖がようやくとれて帰ってきた時に、ハワイに二日間寄ったんですよ。監督の長沼(健)さんと岡野さんが、本当はそんなこといけないだろうに、休養を与えてくれたんです。そこで杉山がサーフボードを持って海に入って行ってね、サーっと滑ってきた。さすが海のある清水だから「やってるね」って言ったら「初めてやった」っていうんですよ。そのくらいの運動神経の持ち主ですよ。卓球も巧くてね、もう釜本と杉山は何をやっても一級品ですよ。逆に輝紀さんなんかは努力型で、どんな夏の暑い時でも練習の30分前にはグラウンドに出てボールに触っている。練習が始まるころには汗びっしょりですよ。
杉山 松っちゃんもそうだよね。
松本 僕は負けちゃいけないってことで、隆さんはドリブルで抜けるから、僕はパスを使って抜いていくことを徹底的にやりました。味方に渡してワンタッチで出たボールで抜け出す。東洋には桑田(隆幸)っていうパスのうまいのがいましたから。