6月22日、東京オリンピックに臨むU-24日本代表メンバーが発表された。鹿島アントラーズからはFW上田綺世が選出。この世代の日本代表チームで、ここまで29試合に出場して17得点を挙げたストライカーだ。そんな上田が東京オリンピックへの思いを語った。

上写真=2019年11月に行なわれたU-22コロンビア代表との親善試合のときも18番を背負った(写真◎Getty Images)

「他人事というか、関与するとは微塵も思っていなかった」

 今季、上田綺世の鹿島での背番号が「36」から「18」に変わった。「自分が欲しかった番号をもらえた」というその新たな番号には、次のような思いも込められている。

「僕は父に憧れてサッカーを始めたんです。その父が趣味の程度でやっていたサッカーですけれど、18番をつけていて。その理由というのは、西ドイツ(当時)のクリンスマンが好きで、その番号ということで。僕はサッカーを始めたときから、背番号もポジションもずっと父のマネをしていて、それはプロに行っても変わらないんです」

 そして、東京オリンピックに臨む“日本晴れ(ニッポンバレ)”のユニフォームの背中にも「UEDA」の名とともに、その数字が刻まれる。日の丸を背負って自国開催の大舞台を戦う18人のメンバーに選出されたからだ。U-24日本代表でも18番を託されたことは、「僕としてはすごくうれしい」と喜びを言葉にし、メンバー発表後には父から「おめでとう」と伝えられたという。

 数年前までは、無名の選手だったとも言えるだろう。中学時代を鹿島の育成組織で過ごすも、ユースチームに昇格することができず、「思うような進路に行けなくて、プロになれるか不安でいっぱいの時期だった。一番苦しいときだったんじゃないかな」と、東京での五輪開催が決まった8年前のことを振り返る。だから、東京五輪は「他人事というか、関与するとは微塵も思っていなかった。雲の上の話であって、僕には関係ないくらいのレベル。東京でオリンピックやるんだ、くらいでした」というような存在だった。

 それから茨城県内の鹿島学園高校に進み、頭角を現していく。高校3年時には全国高校選手権の舞台にも立ち、卒業後に法政大学へと進学した。大学生になっても活躍を見せていた、まさにそんなとき、上田の存在が森保一監督の目に留まった。

「大学1年生になって五輪世代の活動が始まるのと同時に(代表活動に)呼んでもらえたときは、すごく特殊な気持ちというか。自分が代表に入るというイメージもあまりなかったので。逆に、僕はそれをチャンスに変えたくて。代表で活躍して、自分の名前をどんどん大きくしていく、プレーヤーとしての価値を上げていく。そういった考えでした」

 日本代表に名を連ねることで、「上田綺世」の名が瞬く間に知れ渡った。法政大学でその力を示し続け、ついには鹿島への加入を果たす。昨季はリーグ戦で2ケタの10ゴールを記録し、名門チームのエースストライカーに成長した。そして、いよいよ東京オリンピックの戦いに挑む。

「(開催が)1年延期になりましたが、僕のキャリアとしても、日本のサッカー史でも、すごく大事な大会だと思います。僕自身もこの大会に懸ける思いはすごく熱いので、そういったところをプレーと結果で示せたらいいです。今報道されているように観客の人数は限られると思うので、(スタジアムに)見に来られない人のほうが多いのかなと思いますが、テレビで見てもらえたらうれしいし、画面越しにでも僕の特徴だったりを存分に発揮できたらいいです」

 上田綺世というフットボーラーの22年間の軌跡が、東京オリンピックの舞台へつながっていこうとしている。「選ばれたからには責任があるし、日本を背負う、オリンピックの代表として戦うことはどういうことなのかということを自覚して、パフォーマンスを示していけたら」と決意を新たにする背番号18が、きっと真夏の日本列島に歓喜をもたらすはずだ。

「チームとして金メダルを目指しているので、それに向かう一人として、自分の責任を全うできればと思います」