上写真=日本代表としては75試合で歴代最多の74ゴールを記録した(写真◎サッカーマガジン)
文◎国吉好弘
繰り返し努力する能力も飛び抜けていた
8月10日、釜本邦茂さんが亡くなった。ワールドカップでの優勝を本気で狙うレベルに達した現在の日本サッカーにおいても、疑いなく史上最高のストライカーであり、プレーヤーだった。正確かつ力強い右足のシュートは比類なく、高くダイナミックなヘディングも当代一だった。
日本代表Aマッチ75試合出場74得点、Aマッチの開催が厳しかった時代のクラブチームなどとの対戦も含めれば日本代表233試合157得点(非公式)、日本リーグ通算251試合202得点、積み上げた得点数は代表でもクラブでも他の追随を許さない。本当の意味で世界的なストライカーだった。
筆者が初めて生でサッカーを観戦した1968年8月のJSL東西対抗戦で西軍のセンターフォワードを務めた釜本(以下敬称略)は3ゴールを決めて6-0の勝利に導いた。初めて見た試合で稀代のストライカーのハットトリックを目撃したわけだが、当時は「すごい」という強烈な印象より「簡単に点が取れるんだな」と感じた。当たり前のように難なくゴールを決め続けていたからだ。それもそのはずで、この2カ月後にはメキシコ・オリンピックに臨んで世界を相手に7ゴールを決めている。
現役時代を観戦し、サッカーマガジンで仕事をするようになってJSL200ゴールを追い、引退試合で別冊「さよなら釜本」を制作した。会社の顧問になってもらって、サッカーマガジン杯少年大会では毎年、直に交流させてもらった。Jリーグ開幕時には初代監督に就任したガンバ大阪のこちらも初代担当として取材を重ねた。その後も折に触れて話を伺い「もう聞くこともないやろ」と苦笑されたことも思い出深い。コロナ禍の前には当方が主宰していた日本サッカー史研究会の第100回会合の講師をノーギャラにもかかわらず快く引き受けてくれたことは、今でも感謝している。
何度もインタビューさせていただいた中で、印象に残っているのが代名詞とも言われていた「右45度からのシュート」について尋ねたときのこと。参考にしたのはイングランドの伝説のウイング、スタンリー・マシューズだったというのだ。ドリブラーとして名を馳せ、右サイドから中へ切れ込むと見せて右足アウトで外側へ交わすプレーは「マシューズのフェイント」と呼ばれ、今でもこのプレーを現す代名詞なっている。今や知らない人はないサッカーの最優秀選手賞「バロンドール」の第1回の受賞者であり、マシューズが引退する前にこの賞を設けようという事になったとも伝えられている。
その「マシューズのフェイント」こそ釜本の右45度を生んだ。「一人交わして、右からシュートを打つっていうのはマシューズのフェイントを見て、あっ、これだって思ったからですよ」と繰り出し、「大学の頃は切り返してばかりいて、切り返すと左足で打たなければならなくなる。それで(得意の)右足で蹴るためには外へ出ればいいわけで」と話してくれた。
「それをいかに早く一歩で蹴るか、パッと踏み込んで一瞬早く蹴ることができるかどうか。それを練習しました」というように、その練習を繰り返し、繰り返し行ったという。それで自分の形を作っていったわけだ。
メキシコ・オリンピック前の西ドイツ留学で、ポルトガルのエウゼビオのシュートシーンのフィルムを何度も見て、踏み込みの深さを学んだという話はよく知られているが、タイプの違うマシューズにも影響を受けていたというのは興味深かった。体格、身体能力に恵まれ才能にあふれていたことは間違いないが、ポイントとなるヒントを自ら見つけ、それを繰り返し努力する能力も飛び抜けていた。豪快かつ繊細というのがストライカー・釜本邦茂の本質と言っていいだろう。
一つ心残りであるはずなのは本当の意味での後継者、第二の釜本が現れなかったことだろう。それは誇らしくもあり、残念でもあったはずだ。ちょうど訃報に触れた日の前日、新シーズンのオランダ・リーグが開幕し、NECの小川航基が2ゴール、フェイエノールトの上田綺世も1ゴールを挙げたという報が入ってきた。小川は桐光学園高校時代に高校選手権で青森山田を相手に右45度からの強烈な一撃を沈め、それこそ「釜本以来のシュート」と思わせた選手。上田もさらに多彩な能力を備えるとともに強烈な右足シュートを持っている。
現時点で釜本の系譜を継ぐ本格的なストライカーであることは間違いない。二人のどちらかが、もちろん二人共でも構わないが、来年のワールドカップで「釜本の後継者」にふさわしい活躍を見せてくれたなら何よりの供養になるのではないだろうか。そんなことを思わずにはいられなかった。
心よりご冥福をお祈りします。
現役引退時に制作したサッカーマガジン別冊「さよなら釜本」号(写真◎サッカーマガジン)