あの日のこと、2011年シーズンのことはいまも鮮明に覚えているという。ベガルタ仙台の関口訓充は、現在35歳。年を重ねても、思いは何一つ変わっていないと話す。大震災から10年目の今シーズンも勇気を届けるために、あのときと同じように全力でピッチで駆けるーー(インタビュー前編)。

どこと戦っても負ける気はしなかった

中村憲剛と競り合う関口。全力でピッチを駆けた(写真◎J.LEAGUE)

 キックオフは14時5分。大きな雨粒が落ちて、緑の芝は重くなっていたが、仙台のイレブンは懸命に走り続けた。前半に先制点を献上しても、ロッカールームの士気が落ちることはない。自陣に構えるのではなく、前線からボールを奪いに行くことを確認。関口は確信していた。絶対にいける――。プラン変更は見事に的中した。同点ゴールは、退団したマルキーニョスの代わりに出場機会をつかんだ太田吉彰。そして、87分には梁勇基のFKから鎌田次郎が勝ち越しゴールを挙げた。奇跡的な逆転勝利だった。当時25歳の関口はこう話している。

<あれは自分たちの執念だったと思う>

 あらためて振り返っても、言葉に力が入る。

「最高のゲームでしたよ。逆転につながる90分間は、すべて覚えています。チーム全員でまとまって戦えていました」

 "希望の光"となる快進撃は、4月23日から始まったのだ。甚大な被害を受けた東北地方、そしてベガルタの本拠地がある宮城県のことは片時も忘れず、ピッチでは勝利だけを目指して走り続けた。

「あのシーズンの僕らは、どこと戦っても負ける気がしなかったんです。相手に関係なく真っ向勝負で勝ってやるぞ、という気持ちでした。0-0で推移しても、リャンさんのCK、FKから点を取れると思っていましたし、押し込まれる展開になっても点は入れられないって。不思議ですが、失点しないと思えば、本当にしない。取れると思えば、終了間際に取れてしまう。いま考えれば、ゾーンに入っていたのかな。僕らは必死に戦いながらも、どこかで心の余裕がありました。僕だけではなく、選手みんなが被災地のために本気で戦っていました」

 2011年のメンバー構成を見てみると、手倉森誠監督は青森生まれだが、主力には東北出身者は山形育ちの菅井直樹のみ。ただ、関口をはじめ、梁勇基、富田晋伍らは新人の頃からベガルタ一筋でプレーし、仙台の土地を第2の故郷のように思っていた。

「ベガルタに、そして仙台の土地に感謝の気持ちは持っていました。プロ生活をスタートした場所ですし、僕はここで育ててもらったという思いがありました。生え抜きの選手たちは、みな同じ気持ちだったはずです。それ以外の選手たちも『東北のために』と強く思えたのは、(手倉森)誠さんの発信力が大きく影響したと思います」

 被災地を勇気づけるため、元気を届けるためにピッチで懸命に走っていただけではない。2011年の活動は、関口の人生を大きく影響を与えることになる――。(後編に続く)

Profile◎せきぐち・くにみつ/1985年12月26日生まれ、東京都出身。2004年に帝京高から当時J2だったベガルタ仙台に入団。ドリブルと走力を武器に頭角を現し、09年にはJ2優勝、J1昇格に大きく貢献した。10年には仙台の生え抜きとして初めてA代表に選出されている。13年に浦和レッズに移籍し、15年からセレッソ大阪でプレー。18年に6年ぶりに仙台へ復帰した。今季で仙台在籍13シーズン目となる。171㎝、66㎏