あの日のこと、2011年シーズンのことはいまも鮮明に覚えているという。ベガルタ仙台の関口訓充は、現在35歳。年を重ねても、思いは何一つ変わっていないと話す。大震災から10年目の今シーズンも勇気を届けるために、あのときと同じように全力でピッチで駆けるーー(インタビュー前編)。

上写真=2011年4月29日、震災後のホーム開幕戦で浦和に1-0で勝利し、声援に応える関口訓充と梁勇基(左)(写真◎J.LEAGUE)

取材・構成◎杉園昌之 写真◎J.LEAGUE

マルキーニョスが退団するけどいいか?

 東日本大震災に見舞われてから43日後。2011年4月23日、一時中断していたJリーグは再開した。当時からベガルタ仙台に所属していた関口訓充は、35歳になった今も10年前のことを鮮明に覚えている。

「2013年に浦和レッズへ移籍しても、そのあと2015年からセレッソ大阪でプレーしているときも、2011年の記憶が薄れたことはなかったです。3月11日が近づくたびによりはっきりと思い出します」

 被災したベガルタにとって再開初戦までの道のりは、険しいものだった。3月11日の震災直後、チームは一時解散。選手たちはプロでありながら、この状況でサッカーに打ち込んでいいのか、葛藤した時期もあった。選手たちが再びクラブハウスに集合したのは3月28日。リーグ再開の日程が決まると、仙台を離れて、千葉県で合宿を張った。

準備期間は1カ月足らず。それでも、手倉森誠監督のもと、被災地の"希望の光"になるという合言葉でチームは一つになっていく。千葉合宿でのある日の夜だ。関口は同期入団の梁勇基とともに手倉森監督の部屋に呼ばれた。

「マルキーニョスが退団することになるが、いいか?」

 目玉選手として加入したばかりのエースストライカー候補である。鹿島アントラーズでリーグ3連覇に貢献するなど、その実績は言わずもがな。すべてを分かった上で、関口は短い言葉を返した。

「『大丈夫です』と。戦力的にはマルキーニョスはいたほうが良かったと思いますが、気持ちの問題。周囲から戦力ダウンと言われたりもしましたが、それ以上の団結力が生まれたと思います。被災地のために俺たちがもっと頑張るんだって」

 そして、迎えたリーグ再開日。川崎フロンターレ戦に備えて移動し、等々力陸上競技場に足を踏み入れた瞬間の光景は、今でも目に浮かぶ。

「すぐにベガルタ・サポーターの姿が目に入ってきました。しかも、すごい人数だったんですよ。本当に感動して。会場に足を運んでくれたファン・サポーターのなかには、震災で身内を亡くした方もいたと思います。目に涙を浮かべている人もいました。そういう中でも僕たちに声援を送ってくれていました。あらためて、俺たちはやらないといけないという気持ちになりましたし、絶対に負けられないと思いました」