連載『ボールと生きる。』では一人のフットボーラーを取り上げる。今回は「谷口博之が歩んだ16年」の中編。一心不乱にサッカーに取り組んできた男の少年時代からマリノスユース時代、そして川崎フロンターレでプロになり、移籍を決断するまでを綴る。

求める何かを見つけるために

2006年にはJリーグベスト11に選ばれた。川崎Fのチームメイト、我那覇和樹(中央)、中村憲剛(右)とともに歓声に応える(写真◎J.LEAGUE)

 ひたむきに、貪欲に。

 日々、一生懸命やって、課題としてテクニックを磨く居残り練習を続けた。頑固な努力が、いつか実を結ぶことを信じて。悔いを残さない毎日は、プロに入っても崩れることがなかった。終わった試合は必ず映像で振り返ることにした。

「〝このとき、こんなにスペース空いてんじゃん。どうして見えていなんだ、俺〟とか、映像を見て気づくことも多かったので(振り返ることは)ずっと続けていきました」

 U-22日本代表ではサブに回ることが多く、落選も続いた。だが努力が実り、翌2008年の北京五輪本大会メンバーに選出される。対人、空中戦の強さ、そして得点力を買われてトップ下で起用され、グループステージ全3試合に先発する。
 だがアメリカ、ナイジェリア、オランダ相手にいずれも1点差負け。谷口はチームが唯一得点を挙げたナイジェリア戦においてアシストを記録するも、悔しい思い出になってしまった。

 引退に際し、当時U-23代表の指揮を執った反町康治監督に電話を入れたという。引退のあいさつに加えて、どうしても北京五輪のことは伝えておきたかった。

「五輪のときは申し訳なかったです」と。

 全力でプレーしたことに変わりはない。グラウンド状態が悪いなかでも、彼は戦い続け、走り続けた。謝る必要などないと反町監督は言ったはずだ。しかしそう言わないと、谷口自身の気持ちが収まらなかった。

「だってあそこ(トップ下)で僕を使うのは相当な賭けだったと思うんですよ。チーム(フロンターレ)ではボランチで使われていましたから。その期待に応えられなかったのは、自分のなかではどうしてもやっぱり……」

 実直な人は、そう理由を口にした。

 努力は続けている。後悔しない毎日も続けている。北京五輪後にはA代表にも招集された。しかしあの当時、ピッチで100%を出したつもりでも、何かが足りていないと感じていた。手に入れたい本当の何かがカタチとして見えてこない感覚もあった。

 2010年シーズンに入ってレギュラーのポジションを失い、7年間在籍したフロンターレを離れる決断を下す。それは自分が求める何かを見つけ出すためでもあった。

(1月29日公開の後編に続く)

≫≫前編◎昨季限りで引退した谷口博之の16年「曇りなき決断」

Profile◎たにぐち・ひろゆき/1985年6月27日生まれ、神奈川県出身。横浜F・マリノスのジュニアユース、ユースを経て、2004年に川崎Fに入団。翌05年シーズンからボランチとして定着し、06年にはJリーグカップのニューヒーロー賞を受賞、Jリーグベスト11にも選ばれた。08年にはU-23代表として北京五輪に出場している。11年に横浜FMに移籍し、13年に柏を経て、14年に期限付きで鳥栖に加入。15年に完全移籍を果たし、19年限りで現役を引退。16年のキャリアでボランチやCBとして活躍し、J1通算350試合52得点、J2通算11試合1得点の記録を残した。182cm、73kg