連載『ボールと生きる。』では一人のフットボーラーを取り上げる。今回は「谷口博之が歩んだ16年」の中編。一心不乱にサッカーに取り組んできた男の少年時代からマリノスユース時代、そして川崎フロンターレでプロになり、移籍を決断するまでを綴る。

憲剛さんに頼っていた

2004年に川崎フロンターレに加入。2006年にはJ1で13点を挙げた(写真◎J.LEAGUE)

 追い抜かれたら、追い抜き返す。小さかった体も成長期に入って、どんどんと大人の体つきになっていく。心の強さに比例するように、強い体の基礎がつくられた。ジュニアユースからユースに昇格。主にトップ下、ボランチをこなし、安達亮監督(現カターレ富山監督)の厳しい指導のもとで鍛え上げられていく。国体優勝を経験し、U-17、U-18日本代表にも入った。副キャプテンとしてチームを引っ張っていく存在でもあった。「ユースから昇格するならタニ」と言われていたが、2003年に岡田武史監督のもとでJ1優勝を遂げたトップチームからお呼びは掛からなかった。

「亮さんに呼ばれて昇格できないことを告げられたことは覚えています。『ようやくプロになれる、マリノスのトップチームでやれる』という思いがありましたから。でもフロンターレに声を掛けてもらって、プロになることができた。いま振り返るとちょっと生意気だったとは思います。『すぐ試合に出たい』みたいな感じになっていましたから」

 当時J2の川崎フロンターレに入団した谷口は対人の強さを買われて、練習からストッパーに入るようになる。そして夏場に入ってJ2デビューを果たし、出場機会を増やしていく。連戦連勝。チームは大卒2年目の中村憲剛、得点王ジュニーニョらタレントを関塚隆監督がうまく束ね、勝ち点100点超えでJ2優勝を果たした。J1に昇格した2005年からは本来のボランチに入り、中村とのコンビが定着する。

「相手からボールを奪ったら、預けるのは憲剛さん。前に誰かいても、後ろにいる憲剛さんに出していたくらいですから。とにかく憲剛さんに頼っていました」

 翌2006年には持ち前の攻撃力を発揮して13ゴールを叩き出し、チームは2位に躍進。中村とともにベストイレブンに選ばれ、飛躍を遂げるシーズンとなった。それでも満足はしなかったという。

「勝手に上がっていって点を取って、前から追い回して守備をする感じでやっていたんですけど、それができたのも憲剛さんがバランスを取ってくれていたから。自分のなかではいいボランチではなかったと思うんです。ベストイレブンに選ばれたこともうれしかったですけど、自分のプレーに満足できた試合なんてほとんどなかった。〝俺、何をやってんだ〟っていう思いのほうが強かった」

 ボランチとして新境地を開くため、プレー面のチャレンジをしたいとは考えていた。試合に出ていても満足はできなかった。「憲剛さん頼み」を打破すべく、全体練習が終わったらサイドチェンジなど自分の課題に取り組んだ。だが、優勝を期待されるようになったチームのなかで「自分の1回のミスで勝てなかったら意味がない」とチャレンジを封印せざるを得なかった。