連載『ボールと生きる。』では一人のフットボーラーを取り上げる。今回は「谷口博之が歩んだ16年」の中編。一心不乱にサッカーに取り組んできた男の少年時代からマリノスユース時代、そして川崎フロンターレでプロになり、移籍を決断するまでを綴る。

上写真=2014年から2019年まで谷口博之は鳥栖で6シーズンを過ごした(写真◎J.LEAGUE)

≫≫前編◎昨季限りで引退した谷口博之の16年「曇りなき決断」

文◎二宮寿朗 写真◎福地和男(インタビュー)、J.LEAGUE 協力◎羽田 エクセルホテル東急

マリノスでトップ昇格できず

 プロになってやる、絶対に。

 谷口博之がJリーガーになると心に決めたのは小学5、6年のころだったという。横須賀の鴨居FCで1年生からサッカーを始めてメキメキと上達していくなかで、明確な意志を持った。

「小学生のころはガキ大将みたいな感じで人に迷惑を掛けることも多くて、小学校の担任の先生だったり、サッカーのコーチだったり、いろんな大人と接していくうちに〝俺、プロになろう〟って思ったんですよね。母子家庭で育って、ハングリー精神も人一倍強かったように思うし、プロになって稼げるようになってやろう、サッカーで有名になってやろうって。(進学で)お金はかけられないと思っていたし、心に決めてからは、プロになるためにはいろんなことをやっていかなきゃいけないって考えました」

 早起きしての〝一人朝錬〟は日課だった。遊びよりも何よりもサッカーを優先した。昼の休憩時間も、練習後もとにかくボールを蹴り、走った。翌日も、その翌日も、延々と。プロになる覚悟に、嘘をつきたくない。小学生ながらその鉄の意志は、「いろんな大人」にも伝わるようになっていた。小6のとき、ナショナルトレセンU-12に選出され、「横須賀の谷口」は一目置かれる存在になっていく。横浜F・マリノスのジュニアユース追浜のセレクションにも合格して、プロへの第一歩を踏み出すことができた。

 だが人生最初にして最大の試練が待ち受けていた。

 スピードがあって中盤、前線をこなしていた谷口少年だったが、周りと比べて成長が遅かった。「どんどん追い抜かれていく」感覚に包まれ、くじけそうになった。試合にも出られない。やろうと思っているのに、できないことも少なくなかった。

「僕のサッカー人生で一番苦しい時期は、間違いなく中1のころでした。あの苦しみがあるから、どんな厳しいことがあってもつらいとは思わなくて済みました」

 努力しているのに、成長のスピードを上げていけないもどかしさ。しかし谷口少年は努力をやめなかった。

「だって勉強もできないし、ほかにやりたいこともない。何よりサッカーが好きでしたから。自分の唯一、いいところはサッカーに関しては頑固なくらいブレないこと。一度、やり抜くって決めたらやり抜けること。それしかないんです」