高校サッカー界を代表する名将で、長崎総科大附を率いていた小嶺忠敏監督が死去した。享年76歳。島原商をインターハイ優勝、国見を選手権で戦後最多タイとなる6回の優勝に導き、多くのプロ選手も輩出するなど偉大な足跡を残した。

上写真=1987年度の第66回大会で国見を率いて選手権初優勝。試合後にベンチ脇で取材に応じる小嶺監督(写真◎BBM)

島原商から国見、長崎総科大附へ

 1945年生まれ、長崎県出身の小嶺氏は、大阪商業大卒業後の68年、母校の島原商に赴任してサッカー部監督に就任。77年にはインターハイで初優勝に導き、自身にとっても初の全国タイトルを獲得した。

 国見への転勤のために離れた84年度に、島原商が選手権で帝京(東京)と両校優勝。監督としての選手権優勝は逃がしたものの、国見であっという間に全国制覇を果たす。初出場した86年度の第65回大会では、いきなり決勝に進みながらも東海大一(静岡)に敗れたが、翌87年度に再び決勝で顔を合わせた東海大一に勝ち、初優勝を果たした。
 
 島原商時代から九州という地域的なハンディを克服しようと、マイクロバスを自ら運転し、関西や、遠くは静岡、関東にまでやってきて、レベルの高い相手との練習試合を重ねた。そのやり方は、のちに地方の指導者が軒並み真似をすることになったほど。高さ、速さ、個人技など、選手の特性を最大限に生かすことを考え、時に『蹴って走るサッカー』との批判を受けても信念を変えず、90年度、92年度、2000年度、01年度、03年度にも日本一に輝いて、帝京と並んで戦後最多タイとなる6回の選手権優勝を成し遂げた。
 
 国見在任中の93年には、日本で開催されたU-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)でU-17日本代表監督も務め、世界大会で采配を振るっている。国見の校長も務めるなど、教育者としても確かなものを備えていた。
 
 定年退職後に政治家への転身などで国見を離れ、その後に長崎総科大附で総監督や監督を務めた。同校は現在開催中の第100回高校選手権に2年ぶり8回目の出場を果たし、小嶺氏も監督として登録されているが、体調不良を理由にベンチ入りしておらず、チームは3回戦で敗退していた。

 国見時代の教え子、ヴィッセル神戸の三浦淳寛監督は、クラブを通じて哀悼のコメントを発表している。

「突然のご不幸を伺って、本当に悲しくて、残念です。いまの自分があるのは小嶺先生のおかげです。

 小嶺先生のもと、高校時代、日本一を目指して厳しいトレーニングをすることで、実際に日本一になることができました。何より高校生活で学んだことは、人間性の部分です。先生からは「良い選手であることは素晴らしい。自分の人生を考えたときには、それだけでなく、良い人間性だと言われるような大人になってほしい」と言葉をもらいました。高校3年間でいまの自分の基礎となる人間教育を受けました。自分も常に謙虚さや、いまの自分がどうなのかを振り返ること、そういうことを当たり前にできるようになりました。それは、小嶺先生の教育のおかげだと思っています。

 いまの自分の座右の銘は、高校時代に小嶺先生から頂いた「自信と過信は紙一重」です。この言葉を忘れずに人生を進めていきます。

 先生は、サッカーに懸ける情熱は誰よりも持っている先生だと思いますし、いままでずっと突っ走ってサッカーに懸けてきた分、天国で少し休んでほしいなと思います。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ご冥福をお祈りします」