日本を代表するサッカージャーナリストで、FIFAワールドカップを計10大会取材した賀川浩さん(かがわ・ひろし)が5日午前、老衰のため兵庫県神戸市内の病院で死去した。享年99歳。1966年から発行されるサッカーマガジンでも連載や特集、選手の直撃インタビューなどで健筆をふるった。80年代からの連載担当者であり、40年にわたる記者仲間である国吉好弘氏が追悼する。

上写真=2015年、FIFA会長賞を受賞し、スピーチする賀川さん(写真◎Getty Images)

文◎国吉好弘

戦前と戦後、過去と現代をつないだ

 12月5日、賀川浩さんが亡くなられた。

 同日、昼過ぎに訃報に触れた。正直、驚いた。というのも10月14日に賀川さんの膨大な資料の一部(半数は1995年の阪神淡路大震災で消失)を集約して神戸中央図書館の一室に設立された「賀川文庫」の10周年を記念したイベントに出席したばかりだったからだ。体調が優れず入院してはいたが、見舞いに訪れると、こちらが話しかけた言葉にも応えてくれて、一両日中には退院できると聞いた。同行した、やはり賀川さんの薫陶を受けたジャーナリストである大住良之さん、後藤健生さん、田村修一さんたちと、12月29日に迫った誕生日を無事に迎えられそうだと話し合っていた。

 まさか、100歳の誕生日を祝うことができないとは……。

 1983年にサッカーマガジン編集部に入って以来、今まで……。いやサッカーマガジンに入る以前から読者として、誌面に掲載された、あるいは他の媒体のものも含めてその文章に触れ、大きな影響を受けていた。

 いつからだったのか忘れてしまったが、賀川さんの連載の担当となった。何度も何度もやりとりをして、実際にお会いして、お話をうかがった。そのすべてが貴重な機会だったが、中でも印象深いのは1936年ベルリン・オリンピックのスウェーデン戦勝利にも貢献するなど、戦前の日本サッカーでは際立った存在であった川本泰三(敬称略)についての話だ。

 我々60歳~70歳代のサッカーに関わる者にとって、釜本邦茂のプレーは実際に見て知っていても、それ以前の戦前に活躍した選手については知る術がなかった。賀川さんにしても10歳年上の川本を最盛期に見たのは一度だけと言っていた。

 だが戦後、復員してきたときには「大阪クラブ」という同じチームでプレーし、天皇杯でも3度決勝に進んでいるので、実際にそのプレーを体感していた。賀川さんの話や記事によれば、川本は「シュートの名人」と呼ばれるほど、正確なシュートと高い得点力を持っていた。ベルリンでのスウェーデン戦でも0-2とリードされた後半に反撃ののろしを上げる1点目を決めている。これは日本のオリンピックにおける最初のゴールでもある。

 スピードはないがボール扱いは当時としては飛び抜けていたようで、「今でいえば小野伸二レベル」と言うから、相当な名手だったと分かる。まだボールリフティングなどという言葉もなく、誰もそんな練習を思いつきもしなかった時代に、ゴムボールを使って何百回も突いて遊んでいたという。のちに指導者となると「ボール扱いがすべて」と言って、選手のボールコントロール向上を求めた。技術に対する目線が他とは異なっていたのだ。

 そんな戦前のスタープレーヤーのことを詳しく教えてくれたのが、賀川さんだった。賀川さん以前にも優れたジャーナリストはいたが、当時は試合のリポートが主流。のちにサッカーマガジンなど専門誌が生まれてサッカーについて多角的に書く機会を得ると、賀川さんはこうした選手たちについて、より詳しく紹介してくれた。それが我々の知識を深め、想像力を刺激してくれた。

 早稲田大の川本のライバルであった慶応大のオールラウンドプレーヤー・右近徳太郎や、賀川さんの実兄で技術とスタミナを兼備した賀川太郎、1歳年下だが、親友でありサッカーセンス抜群の岩谷俊夫、さらに後輩で抜群の走力とドリブルを誇った鴇田正憲ら、各時代の日本代表の中心で、日本サッカー殿堂入りもしているような戦前戦後の名手たちは多くが神戸一中の先輩・後輩で、賀川さん自身が親しく付き合い、ともにプレーした経験もあった。だからこそ誰よりも詳しく、臨場感をもって書くことができた。賀川さんの記事が日本サッカーの戦前と戦後を、過去と現代をつないでくれたのだ。

 2021年に創立100周年を迎えた日本サッカー協会の「百年史」を作成するお手伝いをさせていただき、サッカー界の出来事を1年単位で綴ったクロニクルや天皇杯、高校選手権などの歴史について執筆する機会を得た。その中で、当時の機関誌や新聞記事などを丹念に当たるのは当然として、そこに賀川さんの記事があったことが、どれほどの助けになったことか。本来であれば賀川さん自身に原稿をお願いしたいところではあったが、残念ながらすでにそれは厳しい状況だった。

 それでも、賀川さんの残してくれたものが「百年史」の至るところに反映されている。およそ100年という日本サッカーの歴史とともに、ほぼ100年という賀川浩の人生は存在したと言えるのではないか。

 最後に賀川さんへの手向けの言葉として、ちょうど10年前に『90歳の昔話ではない』(東邦出版)という本を作ったときのあとがきに記した文を、もう一度ここに掲げることをお許し願いたい。

『賀川さんの文章に触れていて、いつも感じるのがサッカーに対する愛情だ。独特の視点と豊富な知識、経験から、時に厳しい意見も書かれるが、それもすべてサッカーを愛するが故の言葉である。理屈や偏見でサッカーを語ることはない。サッカーがマイナースポーツであった時代から少しでも普及させたい、このスポーツの素晴らしさを一人でも多くの人に知ってほしいという思いで、執筆されてきたからこそである。

 昨今ではサッカーを語る文章はおびただしい数に上るが、ともすればサッカーを理論、理屈で語ろうとしすぎる面もうかがわれる。もっともな指摘も少なくないが、果たして肝心のサッカーの魅力、面白さは伝えているのだろうか、と感じることもある。サッカーを愛する者だけが、サッカーを語ればよいとは決して思わない。中立な立場から冷静な意見も必要だし、嫌いな人の言い分に耳を傾けるべきところもある。しかし、その魅力を語ろうと思えば、やはり愛情を持つ者にしかできないだろう。賀川さんはその点で第一人者である』

 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

1980年、来日したヨハン・クライフにインタビューした賀川浩さん(写真◎サッカーマガジン)