1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第40回は1980年にヤンマー復活の年にプレーイングマネジャーとしてのみならず、一瞬、GKを務めた釜本邦茂について綴る。

上写真=三菱重工戦で途中からGKを務めた釜本邦茂(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘

本来の姿を取り戻しチームをけん引

 1980年5月11日、京都の西京極競技場では日本リーグ(JSL)第7節、ヤンマーディーゼル対三菱重工の試合が行なわれた。ヤンマーが前半のうちに2点をリードし、迎えた後半、通算の77分に堀井美晴に代わって長谷川治久が入り2人目の交代を終えたあとに、GK坪田和美が負傷してプレー続行が不可能になった。

 当時は2人の交代しか許されておらず、残り時間をヤンマーは10人で戦わなければならない事態となった。しかし、退場したのがGKであり、フィールドプレーヤの誰かがGKを務めなければならなかった。そこで控えGKから白いユニフォームを借り、ゴールマウスに立ったのが釜本邦茂だった。言うまでもなくJSLを代表するストライカーであり、すでに退いていたが長年日本代表のエースを務め、ヤンマーでも依然としてチームの大黒柱だった。

試合の残り時間と2点のリードという状況を鑑み、ディフェンスの選手をGKに充てることは難しかった。そこで攻撃の選手で最も長身だった釜本がゴールを守ること自体は理にかなっていたと言える。2シーズン前の78年からは選手としてもプレーしながらヤンマーの監督も兼任していた釜本が自ら判断して決めた。

 こうして稀代の点取り屋がヤンマーのゴールマウスに立ち、少し腰を落として構えで相手の攻撃に備えた。三菱にとっては大きなチャンスに違いなかった。果たして数的なアドバンテージも得て攻め込んだが、なかなかGK釜本を脅かすことができない。何度か放ったシュートもDFにクリアされたり、ゴールの枠をそれてしまった。結局、試合は2-0のままタイムアップとなった。

 釜本の活躍(?)により、ヤンマーは7連勝を飾って首位を快走。当然ながら次の試合からは、いつものように釜本はセンターフォワードを務めた。第8節の東洋工業戦は1-1で引き分けて連勝は止まったものの、第9節の新日鉄戦でも、本領発揮のゴールを決めて1-0で勝ち、首位のまま前期を終えた。

 前期の9試合で釜本は6得点を記録。その好調ぶりについて、当時のサッカーマガジンで賀川浩氏は「今年は終始トップに立ち、いつもゴールを狙う、という釜本本来の姿に戻った」ためと記している。釜本が監督を兼務した当初は、この時代に「全員攻撃、全員防御」という考え方が広まったこともあって、さまざまな要求を受けて迷いがあったという。釜本が中盤に下がったり、バックラインに入ったことさえあった。それがこのシーズンは原点に返って、ゴールを奪うことに専念したのが功を奏した。JSL開幕前に行なわれて敗退したモスクワ・オリンピック予選にも、日本代表に復帰させておくべきだったのでは、という声が上がっていたほどだった。