1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第35回は数々の名勝負を生んできた『西が丘』について綴る。

かつてはW杯予選も開催

イタリアW杯予選のインドネシア戦(日本5-0インドネシア)。

 当時は西が丘に限らないが、夏には芝生がきれいに生えそろって緑のじゅうたんのようになった(芝の育成に失敗した年もある)。だが、季節が深まるにつれ芝は薄くなって下の土が現れ、残っている芝も枯れて茶色(黄色?)になっていくのが通例だった。春先にも一度整えられるが梅雨を迎える頃には泥だらけになることを覚悟しなければならなかった。

 1989年6月には、国立競技場が使用できなかった事情もあって90年イタリア・ワールドカップ予選、インドネシアとの試合が西が丘で行なわれた。発表された観客数は9000人とさすがに「満員」にはなったが、今では考えられない数字だろう。さらに「(フィールドの)中央部は芝生がはげ、折からの悪天候で滑りやすく、結果的にはインドネシアの細かい足技を封じるホームの利となったものの、ワールドカップ予選としてはお粗末な舞台だったと言わざるを得なかった」(サッカーマガジン89年9月号)と記されたようにコンディションは悪く、相手の監督にも「ふさわしくないスタジアム。FIFAに許可を得ているのか」と酷評された。

 小規模なスタジアムであるがゆえに、さまざまな不評はあったとはいえ、日本サッカーの低迷時代に酷使に耐えて重要な役割を果たし、今もなお健在だ。近隣の施設は建物、設備も充実した「国立スポーツ科学センター」として、日本のトップアスリートの重要拠点となっている。

 サッカー場も数度の小規模な改装を経て、収容人数は7258人に減ったが、時にはJ2の試合も行なわれ、関東大学リーグ、高校選手権、高円宮杯全日本ユース(U-15)選手権など、各カテゴリーの舞台として不可欠な存在であり続けている。簡素だが見る者にとってやさしい「西が丘」は、何度か訪れたことのある者には心安らぐ場所の一つだろう。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。