サッカー史に残るクラブや代表チームを「世界遺産」に登録していく今連載。今回は、旧ソ連のフットボールの歴史を大きく変えたクラブを取り上げる。今回紹介するのはデータに基づく緻密なチームづくりで、欧州で大きなインパクトを残した1970年代から80年代のディナモ・キエフだ。

速戦即決主義

ディナモ・キエフの前線で躍動したベラノフ。カップウィナーズカップを制した86年はメキシコW杯でも活躍し、バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞

 ロバノフスキーという戦術家の一大特徴は速戦即決にある。反撃に転じたら即座に敵の防壁を破壊することだ。敵が堅陣を敷く前に叩いてしまう。それが最も効率がいい。そうした合理的発想からたどり着いた戦術思想である。

 ならば、攻撃陣に求めるものは何よりもまず機動力――そう考えても齟齬はない。事実、ロバノフスキーは一貫してスピードに優れた韋駄天を重用し、大きな戦果を上げてきた。

 1975年のカップウィナーズカップで初優勝に導いた快足オレグ・ブロヒンの活躍が始まりだ。あだ名は『ウクライナの矢』である。その二代目が1990年代の後半に現れるアンドリー・シェフチェンコだった。

 当然、最強キエフにも鋭い矢があった。前線で重鎮ブロヒンとペアを組むイーゴリ・ベラノフだ。小柄だが、右足から強烈な一撃を放つシューターでもあった。

 しかし、新旧の矢だけが速攻の決め手だったわけではない。大外からの切り崩しも速く、巧みだった。特に、右の矢となるイバン・ヤレムチュクは縦への仕掛けで敵を手玉に取り、西のつわものたちを大いに苦しめた。

 攻撃陣に逸材がそろったのも強みだが、ロバノフスキーは陣形にも工夫を施している。前線の2人と両ウイングを軸に攻め込むのがクラブの伝統だったが、2トップの背後に5人目の襲撃者を据えて攻め手を増やした。

 この当たり役を得て躍動したのが小さな魔術師アレクサンドル・ザバロフだ。

 この人こそチーム随一の技術と創造力を誇るキエフの弓だった。4本の矢が面白いように敵の急所を射抜いたのも、クラブ史上最高の弓の使い手がいたからだ。いつでも、どこでも、ボールを奪ったら全速前進。わざわざ相手を自陣に引き込み、一発で背後を突くようなカルチョ風の駆け引きは一切しなかった。

 そもそも守りを固める必要がない。ほとんどの試合で攻めていたからだ。ただ、守備側の人数もそろってしまうから、速攻を仕掛けにくい。それでも、攻めあぐねるケースは滅多になかった。ボールを動かす力があったのも確かだ。しかし、決定的な理由はそこではない。未来を先取りする仕掛けに秘密があった。

プレッシングの先駆者

 攻守が入れ替わった瞬間、守備側に回ったチームは危機に陥りやすい。敵の攻撃に対して、すぐに反応するのが難しいからだ。後手に回って、攻撃側との間に小さなタイムラグが生じる。最強キエフはこの時差を巧みに利用した。ボールを奪うと、足が止まった守備者をしり目に休まず攻めたわけだ。

 時は金なり――である。

 もっとも、速攻大国のイタリアにも同じ発想があった。ロバノフスキーの先進性は時差の利用機会を拡大したことにある。つまりは攻守の切り替えの量産。しかも、それを敵陣から試みた。

 フォアチェッキング――当時はそう呼ばれていた。

 もともとはアイスホッケーの用語である。攻撃が失敗した後に、自陣に戻らず、敵陣でチェックを続けてパックを奪い返す戦術だ。
 ソ連は言わずと知れたホッケー大国。その戦術をサッカーに転用できないか、と考える指導者がいたとしても不思議はない。実のところ、ディナモ・キエフはすでに1960年代からフォアチェッキングを採り入れていた。ちょうどオランダでプレッシングの革新が始まった頃である。

 ソ連版プレッシングの創始者はビクトル・マスロフ。ディナモ・キエフの第一次黄金時代を築いたモスクワ生まれのロシア人だ。冷戦の最中、奇しくも西と東で戦術史を一変させる革新が起きていた。ロバノフスキーはマスロフの遺産を受け継ぎ、現代への橋渡し役となったと言っていい。

 最強キエフのフォアチェッキングは、ボールの即時奪回を試みるゲーゲンプレッシングの源流だ。そして、敵陣で繰り出す鋭い速攻は現代で言うショートカウンターの原型だった。

 東から――いや未来から現れたようなチームに西の強豪が面食らったのも当然だろう。速く、切れ目のない攻守のテンポ、寄せ手の迫力と激しさを伴うプレッシングの強度は別の次元にあった。

 この輝かしいソ連版トータルフットボールはしかし、西側の話題をさらうまでには至っていない。ヨーロッパ最強クラブのお墨付きを与えられるチャピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)の王者ではなかったからだ。

 ソ連王者として最大の覇権争いに挑んだのは、カップウィナーズカップ制覇の翌86-87シーズンのことである。本命の呼び声も高かった。事実、ベスト4まで勝ち上がり、王座はすぐ目の前にあった。