1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第31回は1970年代中期からとくに象的なプレーを見せた小柄なストッパー、山田等について綴る。

現役を終えると審判に転身

FWから中盤、そしてCBとポジションを変えて活躍した山田等。引退後は審判としても活躍した(写真◎サッカーマガジン)

 山田の身長は166センチ、対する釜本は公称179センチだが、これは本人が180センチを超えていることを知られるのを嫌ってのことで、実際には182~183センチあった。その差は15センチ以上だ。

 しかし、山田は持ち前の粘り強さと高い身体能力を生かして釜本を厳しくマーク、このエースに得点を許さず3ー2で勝利をつかんだ。後に「背が165センチ(原文ママ)しかなかった私が、どうしたら釜本さんに対抗できるか、というとやはり“負けてたまるか”という意欲、闘争心しかないと思ったわけです」(1984年別冊サッカーマガジン「さよなら釜本・釜本邦茂引退記念号」と述懐している。

 そしてこの試合のことを「雨の日の試合でヤンマーに3-2で勝ったんですけど、それまでヤンマーは8連勝、釜本さんも8試合連続得点を続けていたんです。その両方ともストップできて、記憶に残っています」とも述べた。

 その後もストッパーとして相手FWに嫌がられるプレーを続けた山田は1980年で現役を退いた。選手としては、俊足FWから厳しいマークのストッパーに転向した山田だが、現役を終えると今度は審判に転身する。持ち前のサッカーへの情熱と粘り強く頑張る姿勢でこちらでも頭角を現し、1級審判員となって1986-87シーズンからはJSL1部で笛を吹いた。JSL最終シーズンの91-92シーズンまで審判を務めた。さらに華々しくスタートしたJリーグでも最初の93年シーズンには主審を務めた。

 優勝や日本代表など華々しい舞台には縁がなかったが、選手として170試合、主審として49試合JSLのピッチに立った記録は誇れるもの。JSLの歴史を支えてきた一人であることは間違いない。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。