1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第30回は現在のルヴァンカップの原点とも言えるカップ戦、JSLスペシャルカップについて綴る。

新興勢力の藤和とヤンマーの決勝戦

決勝では中盤に下がってプレーしたヤンマーの今村。積極的にシュートも放った

 東では前年にリーグ、天皇杯2冠の日立と三菱、さらに前年にJSL昇格を果たし最下位に終わったものの、後期にはセルジオ越後、カルロス松田と外国籍選手を加えて力をつけた藤和の3チームが争った。いずれも4試合を戦って勝ち点5(当時の勝ち点は勝ちが2、引き分けが1)で並び、得失点差で藤和が1位、三菱が2位となり準決勝へ、王者・日立は敗退となった。西地区でもヤンマー、新日鉄、東洋が勝ち点5で並び、こちらも得失点差で上回ったヤンマーが1位、新日鉄が2位となった。

 そして5月12日に、西が丘で開催された準決勝も2試合とも接戦になる。第1試合で対戦したヤンマーと三菱は90分を戦って両者得点なく0-0。突入した延長戦でも後半も半分を過ぎた113分にヤンマーが阿部洋夫のゴールで均衡を破るが、三菱は終了間際に大久保賢司が決めて同点に追いつく。決着はPK戦に持ち越され、ここでヤンマーが5-4で競り勝った。第2試合の藤和対新日鉄は点の取り合いとなり、前後半にそれぞれが1点ずつを決めて2ー2でこちらも延長戦へ。ここで前半に郡山義治のゴールでこの試合初めてリードを奪った藤和が、3ー2で逃げ切り決勝進出を決めた。

 新興勢力の藤和はまだ日本代表に選手を送り込んでおらず、大卒で今井敬三(同志社大)、古前田充(大阪商大)といった即戦力が加わり、越後、松田が日本のサッカーにも慣れて前年より戦力アップしていた。一方ヤンマーは大黒柱の釜本邦茂、ブラジルから来日して帰化し日本代表にも定着した吉村大志郎らが代表で抜かれていた。

 決勝戦は2日後の5月14日、やはり西が丘で開催された。試合は「飛車角落ち」とはいえ実力者をそろえるヤンマーが主導権を握り、34分に大畑行男のクロスから今村博治がつなぎ、最後は堀井美晴が蹴り込んで先制する。藤和も後半反撃に出て、67分に今井が上げたクロスに中村勤が飛び込んでヘッドで決め追いつく。

 またしても延長に突入し、双方が決勝点を目指して攻め合うがゴールは生まれず1-1のままタイムアップ。規定により両者優勝となってヤンマーの木村文治、藤和の花岡英光の両キャプテンが同時にカップを掲げた。藤和にとっては創立以来初のタイトルとなった。

 日本代表はW杯予選で敗退したが、スペシャルカップは予想以上の盛り上がりと選手たちの奮闘が光り、3年後の76年からは「JSLカップ」として新たにスタートする。スペシャルカップは現在のルヴァンカップの発祥とも言える大会だった。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。