『ジョゴ・ボニータ』
俗に『サンタスチコ』と呼ばれた黄金期(1959年-1974年)に獲得した栄冠は、実に25を数える。また、この間に記録されたゴール数は3000以上だ。
なお、ペレはサントス在籍時の公式戦で619ゴールをマーク。出場試合数は638だから、ほぼ1試合に1得点のペースでネットを揺らした計算になる。
最強のサントスは1962年。世界初のトレブル(三冠=世界クラブ王者、南米クラブ王者、国内クラブ王者)を達成している。
インターコンチネンタルカップではヨーロッパ王者のベンフィカ(ポルトガル)を圧倒。ホームの第1戦を3-2で制し、アウェーの第2戦も見事なゴールラッシュ(5-2)で蹴散らした。ペレは2試合合計で4ゴール。第2戦でハットトリックを演じ、『黒豹』 と呼ばれたベンフィカの切り札エウゼビオ(10番)に格の違いを見せつけている。
いや、サントスの偉大さはこうした無味乾燥な公式記録とは別のところにあった。現代のメジャークラブに先立つグローバルツアーの先駆者だったことだ。
世界各国を飛び回り、数多くのフレンドリーマッチを開催している。ペレを擁するサントスはまさに引く手あまた。世界中の誰もが一度はその目で見たいと願う夢のチームだった。
最大の逸話は1969年に試みたアフリカツアーだろう。ペレが2つの戦争を止めてしまったからだ。まず紛争状態にあったコンゴ民主共和国とコンゴ共和国が休戦に合意し、内戦状態(=ビアフラ戦争)にあったナイジェリアでは48時間(試合前後)の停戦が実施されている。指導者たちがペレのプレーを観戦するためだった。
味もそっけもない勝者や頭でっかちの強者には、とうてい真似のできないことである。最強サントスにとってフットボールは、ただ勝ち負けを競うためだけのものではなかった。
つまりは、丸いボールを使って王国ブラジルに脈打つ『ジョゴ・ボニータ』――美しいゲーム――を表現する。そこにサントス最大の値打ちがあった。
インターネットやSNSはおろか、カラーテレビも普及していなかった時代。ペレとその仲間たちはグローバルな人気を誇った点でも異例の存在だった。
世界各地で興行を打ち、クラブの金庫を潤す「美の商人」でもあった。より多くの人々を楽しませるのが真のプロなら、黄金時代のサントスを超えるクラブなど、そうはないはずだ。
著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。
著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍。youtube『蹴球メガネーズ』も好評展開中だ。