サッカー世界遺産では語り継ぐべきクラブや代表チーム、選手を紹介する。第33回はブラジルの歴史、いや世界のサッカー史に残る、伝説のチームを取り上げる。『王様』ペレと仲間たちが躍動し、1950年代後半から70年代初頭にかけて世界を虜にしたサントスだ。

『アタッキ・マジコ』

コリンチャンス戦でプレーするペレ。そのキャリアで1363試合に出場し、1281得点したとされる(写真◎Getty Images)

 黄金時代のサントスは、ペレのワンマンチームだったわけではない。脇を固める面々も名人上手がそろっていたからである。

 なかでもアタックラインは別格だった。メンガウビオ、ドルバウ、コウチーニョ、ペペ、そしてペレのキンテッド(5人組)だ。彼らがそろってピッチに立った試合はゴールラッシュの連続である。97試合で実に314ゴールを奪った。1試合平均得点は「3.23」だ。ディフェンス陣が2失点以下に抑えれば勝つことができた計算になる。

 フロントラインは4人。先駆けは1950年代前半のハンガリーだ。最前線から意図的に後退してゴール前にスペースを作り出す、フォルス9(偽9番)の術策から生まれている。

 ブラジルのそれは違った。

 偽9番とインサイドフォワード(8番、10番)によるポジショナルスイッチがない。センターフォワードは前線に君臨するリアル9(真9番)のままだった。

 後退したのは1・5列目のインサイドライトだ。この8番を当時のブラジルでは『アルマドール』(司令塔)と呼んでいる。一方のインサイドレフト(10番)は1・5列目に留まった。

 サントスの4トップは右翼にドルバウ、左翼にペペ。そして、ペレとコウチーニョが中央でペアを組み、後方に陣取るメンガウビオ(8番=司令塔)が4人を巧みに操る仕組みだった。

 そこには戦術的な企図がない。ブラジル式4トップの神髄とは、映画『ペレ=伝説の誕生』で語られる「禁じられた切り札」にあった。ジンガである。

 闘技、音楽、舞踏の要素が交わり、1つの文化としてブラジルに深く根づいたアクロバットな動きだ。ポルトガル語で「千鳥足」を意味する。重心を低く構え、上体を揺らしながら、細かいステップを踏んで、敵を欺く。

 このジンガの極意に通じる一団がペレとその仲間たちだ。彼らがひとたびボールに触れば、誰にも止められなかった。

 やがてサントスの5人組についたあだ名が『アタッキ・マジコ』だ。ドルバウの仕掛けは鋭く、ペペの左足は巧みで、メンガウビアのパスは美しかった。

 もとよりペレの超絶技巧は別格だが、見る者を熱狂させたジンガの魔法がもう一つある。それこそが、いまも伝説として語り継がれるペレとコウチーニョの「合作」だった。

『タベリーニャ』の魔法

 なぜブラジルには過去の偉大なチームを形作った、フォルス9が生まれなかったのか。

 ペレとコウチーニョのペアが、その理由を雄弁に物語っている。ゴール前にスペースをこしらえてもらう必要がなかったからだ。敵が林立する密集地帯をいとも簡単にすり抜け、次々とゴールを陥れていく。大きなスペースなどなくていい。わずかな隙間があれば、それで十分だった。

「ペレは論理の限界を超えた、ただひとりの選手だ」

 オランダが生んだ偉才ヨハン・クライフ(故人)の言葉である。つまりはこの世の常識が通じない別世界の住人というわけだ。

 ひとりでも密集を突き破ってしまうペレが仲間と協力したら、いったい、どうなるか。サントスで演じた衝撃のシナリオが、伝説の『タベリーニャ』だった。ペレとコウチーニョの黄金ペアが紡いだ「壁パス」だ。

 ブラジルでは俗に『タベーラ』(テーブル=英語)と呼ぶが、ペレとコウチーニョのそれは特別だった。通常よりも狭いスペースで短いパスを連続させたからだ。

 そこからタベリーニャ(小型版タベーラ)と名づけられている。めまぐるしいパスのやり取りは、まるでピンポン(卓球=テーブルテニス)のようだった。

 サントスが世界の頂点を極めたのが、1962年と1963年。ヨーロッパのクラブ王者を破り、インターコンチネンタルカップを連覇したときだ。初の世界制覇を果たした当時、ペレは22歳。3つ年下のコウチーニョはまだ19歳だった。若くして神話のデュオとなったのだから、2人がいかに特別な関係にあったかが分かる。

 敵の堅陣をやすやすと突き崩すタベリーニャは決して訓練の賜物ではない。ましてや戦術の産物でもなかった。一瞬にして、互いの企図を悟る以心伝心から生まれたものだ。後年、コウチーニョ自身がそう告白している。

 ペレはセレソンの前線でもババやトスタンと見事なコンビを演じたが、最高の相棒と呼ぶべき存在は、やはりコウチーニョをおいてほかにいない。論理を超えたタベリーニャは、彼ら2人にしかできないシロモノだった。

 サントスの黄金期は1974年までとされている。ただし、ブラジル王者に輝いたのは1968年が最後だ。コウチーニョが退団したのは、その翌年である。

 ペレは依然として偉大なままだったものの、タベリーニャの魔法は失われた。サントスの「終わりの始まり」だった。