1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第27回は異彩を放つ個性派集団、読売クラブの初昇格について綴る。

上写真=1977年当時の読売クラブ。右は今年来日で入団した二十歳のラモス瑠偉(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

長く続いた上位リーグ優位の規定

 1965年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)は当初から入れ替え戦があった。今で言えば昇格プレーオフということになるが、現在行なわれているのは(コロナ禍の今季は開催されないが)J2の1位、2位は自動昇格し、それに次ぐ3番目のチームを決める戦い。J2の3位から6位のチームが戦って勝ち抜いたチームがJ1の下から3番目のチームと対戦する。しかし、JSL開始からしばらくの間行なわれていた入れ替え戦は、JSLの下位2チームとまだ2部がない時代には全国社会人選手権で決勝に進んだ2チームが対戦した。

 つまり自動昇格・降格はなく、それが取り入れられたのは1979年の第19回大会から。この79年も1部の最下位と2部優勝チームは自動で入れ替わるが、1部の下から2番目のチームと2部の2位は入れ替え戦を行なった。入れ替え戦が完全に廃止されて1部の上位2チームと2部の上位2チームが自動で入れ替るのは1984年からだ。

 入れ替え戦は基本的にホーム・アンド・アウェーの2回戦制で行なわれたが、2試合の合計が同点の場合は上位リーグのチームが残留した。これはかなり既存のチームに有利な規定で、2引き分けか、1勝1敗でも得失点差で劣らなければよかった。この規定ためもあって、JSLが始まってチーム数が「8」だった1971年の第7回大会まで、合計13回あった対戦(初年度は最下位のチームと社会人選手権優勝チームの対戦のみ)のうち、入れ替えに成功したのはわずか3チームのみ。社会人選手権で優勝しても、1年間リーグでもまれてきたチームを2戦合計で上回ることは容易ではなかった。

 1973年からは2部ができて1部の下位と2部の上位が争うようになるが、それでも結果の傾向は変わらず、73年からの4シーズンで昇格できたのは73年の永大産業のみ。その4シーズンで74年から3年連続で敗退したのが、読売クラブだった。

 1969年に創設された読売クは、文字通りクラブチームであり、JSLで企業チームではない異色の存在となった。社会人の東京都リーグから始まり、72年にJSL2部が立ち上がるときにはそのメンバーとなっている。無名でも腕(脚?)自慢の個性的な人材が集まり、ブラジルからやってきたジョージ与那城を中心に南米流の個人技を生かしたプレーも取り入れて、年ごとに強化された。

 JSL2部で72年は7位に終わったが、2年目の73年には3位、さらに74年には優勝を果たして意気揚々入れ替え戦に臨んだ。読売クは2部とはいえ18試合で46得点を挙げた攻撃力を誇り、すぐに1部昇格を果たすのではないかとの声も聞かれていた。相手は1部最下位のトヨタ自工。アウェーの第1戦ではPKで与えた1点を返せず、0-1で敗れた。東京へ戻って西が丘で戦った第2戦でも、立ち上がりに集中力を欠いて2点を先行され、後半に反撃したものの、2-3で敗れた。1部との試合運びの差を見せつけられる格好で昇格はならなかった。