連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは、革新的なチームづくりを見せたスペインの地方クラブ、デポルティボ・ラ・コルーニャだ。1998-2005年と短期間のながらも輝く歴史を築いた。

長短の表裏一体

新会長の就任とともにデポルに加わったマウロ・シウバ(右)。94年アメリカW杯ではドゥンガとのドイス・ボランチで優勝の立役者の一人に(写真◎Getty Images)

 デポルの強みがオートマティズムなら、弱みもまたオートマティズムにあった。

 パターン化された攻守は効率がいい反面、不具合が生じたときに修正が効かない。仕組みがバレてしまえば、敵に対策を施されて、窮地に陥りやすい。ミランを相手に奇跡の逆転劇を演じたCLで、すでに予兆はあった。3-8という記録的なスコアで惨敗したグループステージでのモナコ戦である。

 機械的に最終ラインを押し上げる仕組みを突かれ、縦一発という単純なラインブレイクの餌食となった。ツボにはまらなかったときのリスクは相当なもの。自分たちのやり方に忠実であるほど、傷口を広げる悪循環に陥った。

 そこへ長期政権に伴うマンネリズムが追い打ちをかけ、デポルの黄金期は終わりを告げることになる。2005年夏のことだ。デポルが台頭した1990年代の後半から、スペインで4-2-3-1システムとサイドアタックを武器にするクラブが次々と現れたのは興味深い。仇敵のセルタをはじめ、バレンシアやベティスがムーブメントの一翼を担った。

 独力で局面を打開するウイングが「復活」してきたのもこの頃である。縦に鋭く仕掛けるスピーディーな攻めは、細かいパスワークを伝統とするバルサ式とはかなり趣が違っていた。

 ある意味では、レアルとバルサの2強に対抗するためのシステムだったか。そして、これらのスペイン勢はヨーロッパの舞台で旋風を巻き起こし、イタリアやドイツで主流だった3バック・システム(旧式)を衰退させていく。

 従って『スーペル・デポル』は戦術史においても、その名を記されるチームの一つだろう。長所と短所が1枚のコインの裏表だったが、人的資源に限りがあり、一点突破にかけるローカルクラブの、1つの理想形とも言える。

 実際、オーソドックスな「標準志向」では、生き残っていくのが難しい。イルレタ政権の幕引きから、およそ15年。超の文字が取れたデポルは2部に沈んでいる。まさに、兵どもが夢の跡か――。

著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。