1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第24回は「20万ドルの足」「黄金の足」と呼ばれた杉山隆一の『花道』について綴る。

1973年は杉山イヤー

1974年1月1日、第53回天皇杯決勝は2-1で日立を下して三菱が二冠を達成。写真中央が杉山(写真◎サッカーマガジン)

 第5節の日本鋼管戦では、夏場であり、右膝の負傷の影響もあって、杉山はスタメンから外れて途中出場するが、0-1とリードされていた試合を70分から3点を連取して逆転勝利に導く。続く藤和不動産戦でも、前半を0-1で折り返して後半に杉山が登場すると、自ら鮮やかなボレーシュートで2点目を決めるなど一気に4点を奪い、4-1と逆転した。さらに第8節でも新日鉄に前半押しまくられての0-0から、後半に杉山が登場して70分に自ら持ち込んで決め均衡を破ると、2点を追加して3-0で連勝を伸ばした。

 こうなると杉山が登場すれば勝てるという流れがチームに生まれ、続くトヨタ戦も杉山がダメ押しの3点目を決めて3-0で勝ち、リーグ新記録となる8連勝を飾った。勢いは止まらず、三菱は勝ち続けて第15節の鋼管戦に3-0で勝って記録を14連勝にまで伸ばした。

 第16節で優勝を決めたヤンマー戦では1-1で引き分け連勝記録が止まったのは皮肉だったが、それまでの記録を倍にまで伸ばしている。チームの中心となった森孝慈や、堅守を誇った守備陣、台頭した若手たちの活躍も見逃せないが、チームに勢いをもたらしたのは間違いなく杉山の存在だった。

「1試合フルにはやれず、半分の出場だったが、自分としては満足のいくシーズンだった。チームに徹して、しかもストライカー、あるいはチャンスメーカーという自分本来の力を発揮できてうれしかった」と当時のサッカーマガジンに語っている。リーグ終了後に行なわれた天皇杯も制して、まさに1973年は「杉山のシーズン」だった。

 1月末で三菱を退社し、故郷へ帰った杉山だが、サッカーどころ静岡がこの人材を放っておくはずもなく、ほどなくヤマハ発動機の監督兼選手として再びスパイクを履くことになる。そこから現在のジュビロ磐田が始まったのだった。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。