1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第20回は画期的だった2部リーグの誕生について綴る。

初年度優勝はトヨタ自工

初年度を制したのはトヨタ自動車工業。写真は73年8月17日、JSL1部昇格年度の古河戦でドリブルする尾松修次(右/写真◎サッカーマガジン)

 当初は、71年の社会人大会でベスト8に入った8チームをJSL2部に参加させる計画だった。だが、優勝した藤和が入れ替え戦で名相銀を破って昇格を決めると、名相銀が休部に。社会人大会で有力チームが準々決勝までに敗退したこともあり、調整を迫られる。最終的には10チーム編成となった。

 参加したのは読売クラブ(東京)、富士通(神奈川)、甲府クラブ(山梨)、日本軽金属(静岡)、豊田織機、トヨタ自工(ともに愛知)、京都紫光クラブ(京都)、田辺製薬、大日日本電線、電電近畿(いずれも大阪)。この中で異色だったのは読売クだ。

 甲府ク、紫光クも企業チームではないが、もともと地域の教員団から始まっている。一方、読売クは読売グループがバックアップしているものの、会社のサッカー部ではなく、将来のプロ化も見据え、意欲のある優秀な人材を集めたチームだった。東京の多摩丘陵にグラウンド、クラブハウスなどの施設も整え、新しい形式のクラブとして存在が注目された。

 初年度となった72年シーズンを制したのはトヨタ、2位はかつての強豪・田辺。両チームは、翌シーズンからJSL1部が10チームになることが決まったため、自動昇格となった。これまで3度JSLとの入れ替え戦に臨みながら、いずれもあと一歩のところで昇格を逃してきたトヨタは悲願を達成した。

 2部リーグが発足し、73年には1部も10チームになったことで、計20チームが全国リーグを戦うことになり、高校、大学を出てサッカーを続けたい選手の受け皿も広がった。確実にすそ野を広げる改革ではあったが、その効果が全体のレベルアップとして現れるには、さらなる努力が必要だった。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める