1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第19回はあのハンス・オフトが監督に就任したマツダについて綴る。

上写真=日本サッカーを戦術面で発展させた指導者オフト(写真は88年のもの◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

3シーズンぶりの1部復帰

 1986年10月25日、「プロ元年」とうたわれた86-87シーズンの日本サッカーリーグ(JSL)1部が開幕。翌日は5試合が各地で行なわれ、東京の西が丘サッカー場では優勝候補の一角であったフジタ工業と、この年2部から復帰してチーム名も新しくなった元東洋工業の、マツダサッカー部が対戦した。

 前シーズン4位のフジタは日本代表のFW手塚聡、谷中治など既存のメンバーに、のちにはブラジル代表にも入るMFカルロス・アルベルト・ジアスらを新しく加え、充実した戦力を誇っていた。一方マツダは、1960年代に5度の優勝を遂げていたとはいえ、70年代から80年代にかけて成績は低迷し、84年からは2シーズンをJSL2部で過ごしている。3シーズンぶりの復活で、まだまだ上位陣を脅かすとは考えられていなかった。

 ところが、試合の主導権を握ったのはマツダだった。豊富な運動量と激しいプレスでフジタに自由を与えず、奪ったボールを素早く攻撃につなげる。前線のターゲットマンとなった英国人グラハム・ノーリーの高さと、高橋真一郎のスピードで相手ゴールを脅かした。42分にはFKからノーリーがヘッドで落としたボールを、高橋が押し込んで先制する。

 後半に入ってもマツダの運動量は衰えず、フジタのジアスが素晴らしいテクニックを発揮するものの、GKディド・ハーフナーの好守もあって得点は許さない。1-0のまま進んだ83分には、オフサイドトラップの裏を突いて抜け出したノーリーがフジタGK横川泉に倒されてPKを獲得。これを高橋が決め、2-0として快勝した。

 この開幕戦で観客を、そして当時多いとは言えなかった報道陣を驚かせたチームを率いたのが、ハンス・オフトだった。周知のように、のちに日本代表を率いて92年のダイナスティカップ、アジアカップを初制覇。アメリカ・ワールドカップ予選では『ドーハの悲劇』に阻まれ、あと一歩で出場を逃したオランダ人指導者だ。

 日本とのつながりは、1976年に日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に指導したのが始まり。82年にはJSL2部のヤマハ発動機が短期のコーチを依頼し、同年の1部昇格、さらには天皇杯優勝を果たすという快挙に大きく貢献した。

 そして84年に2部に降格したマツダを立て直すために、今西和男監督がコーチとして招へいする。オフトの肩書はコーチながら実質的にチームの指揮を執り、今西監督はマネジメントに徹する体制をとって、85年に1部復帰を決めた。そして前述のプロ元年と言われた86年は、オフトが肩書も監督になって臨んだ初めてのシーズンだった。