1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第18回はJSLに新風を吹き込んだ三菱重工について綴る。

先進的だった二宮監督の手腕

第5回JSLの得点王に輝いた落合弘(写真◎サッカーマガジン)

 中断期間には、当時西ドイツで日の出の勢いを見せていたヘネス・バイスバイラー監督率いるボルシア・メンヘングラッドバッハ、さらにはイングランドのアーセナルに、菊川、落合、大西忠生、大久保賢司の中堅4人を留学させた。二宮が事前に渡欧して関係を築いていたのだ。

 この効果は大きかった。帰国後、落合の得点力には磨きがかかり、後期7得点、前期の5得点と合わせて12得点で得点王に輝く。菊川は守備が向上したことで、SBで持ち味のスピードを攻守に生かせるようになり、大西はハードな守りに安定感が増した。彼らの成長でチーム力がさらにアップして後期も無敗のまま、第13節の東洋戦に2-0で勝ち、念願の初優勝を決めた。

 エース杉山はチャンスメークに徹した。「僕はシーズン初め、アシスト王を取ってやると宣言した。みんなに走ってもらい、合わせてもらうことを念じたのです。やっぱり優勝しないと何にもならないからね」と語っていた。実際、過去最多の11アシストを記録して、前年に続くアシスト王になった。

 あらためて振り返っても、優勝するにふさわしい、穴のないチームだったが、その中でやはり二宮監督の存在は特筆される。斬新なアイディア、それを押し進める行動力は、それまでの日本の監督には見られなかったもので、異質かつ新鮮に映った。

 二宮は76年に日本代表監督に就任すると、ここでも選手を分散して西ドイツのクラブに留学させたり、代表での待遇を改善するなど、独自の路線を進んだ。また成長著しい奥寺康彦をトップに据え、釜本邦茂を背後に置いて攻撃力を高め、ムルデカ大会で初の決勝進出を果たすなど、その手腕を存分に発揮した。奥寺の西ドイツ移籍や釜本の代表引退などで、代表の成績は先細りとなってしまうが、その仕事ぶりは独特で先進的だった。

 三菱がJSLに吹き込んだこの新風は、翌年こそ東洋の巻き返しに遭うものの、70年代に入ってヤンマー、日立と「3強時代」を築く端緒となった。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める