1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第18回はJSLに新風を吹き込んだ三菱重工について綴る。

上写真=初優勝を決めて胴上げされる二宮監督。海外とのルートが乏しかった時代に選手を現地へ送り込むなど、先進的な考えと行動力で三菱重工と日本代表を強化した(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

要所にメキシコ五輪組を配す

 1964年東京オリンピックの翌年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)は、第1回から4年連続で東洋工業が優勝し、黄金時代を築いた。その牙城に風穴を開け、初めてタイトルを獲得したのが69年の三菱重工だった。

 三菱重工は東京、そして銅メダルを獲得した68年メキシコ・オリンピックでも活躍した「黄金の足」杉山隆一を擁し、ここまでの4年間で5位、4位、3位、3位と順位を上げてはいた。ただ、優勝には手が届かなかった。しかし、この年は意気込みが違っていた。

 前年はプレーイングマネジャーとして試合にも出場していた二宮寛が監督に専念。GK横山謙三、DF片山洋、MF森孝慈、そしてFW杉山と、各ポジションにメキシコ五輪銅メダリストを配し、軸となる人材がそろっていた。

 そこで、チームは改革を断行する。前年までFWだった菊川凱夫をサイドバックに下げ、スイーパーだった片山を中盤に上げて森と組ませると、CFだった落合弘は一列下げて中盤の攻撃的な役割を担わせ、既存の選手の能力を見直した。新戦力としては早大から関東大学リーグ得点王の細谷一郎、秋田商高から足利道夫と、のちの日本代表が加入している。若手を主力のレベルに引き上げることも重要となっていた。

 果たしてチームは、シーズン前の2月に東南アジア遠征を敢行。新しい陣容でタイ、香港のクラブなどと練習試合を重ねて、開幕を迎えた。初戦でヤンマーと1-1で引き分け、第2節では押されながら東洋を1-0で下すと、ここから前期終了まで6連勝で首位を走った。