1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第17回はメキシコ五輪後の「釜本邦茂対杉山隆一」について綴る。

DFのパス能力という半世紀前の指摘

メキシコ五輪のおよそひと月前、同じ国立競技場で行なわれたJSLの東西対抗戦(第1戦)でインタビューを受ける西軍の釜本(左)と東軍の杉山(写真◎サッカーマガジン)

 初めてゴール裏から見た試合は大観衆に後押しされて白熱し、ホームの三菱が優勢に進めて先制ゴールを挙げたものの、後半に入ってやはり千両役者の釜本が同点ゴールを決めて4万人を喜ばせた。結局1-1の引き分け。釜本はボールが渡れば何かが起こしそうな雰囲気を醸し出し、ストライカーとしての存在感が抜群だったことを覚えている。

 とはいえアマチュア同士の試合であり、全体のレベルが高かったわけではなかったようだ。中学生だった私には分からなかったのだが、当時のサッカーマガジンに岡野俊一郎氏(当時日本代表コーチ)が鋭い指摘を寄せている。

 両チームの動き、ゴール前の迫力あるプレーには称賛を送りながらも、さらに面白くレベルの高い内容にするためには「4FB(DF)の選手たちが、もう少し正確なパスを出す能力を持つことが必要。ただ前に大きく蹴るだけではゲームメークはできない」と記している。

 さらに「この問題が解決されたときに、日本サッカーとして一歩前進したことになる」との記述もあった。当時指摘された部分が改善されるまで、つまりは守備ラインから確実にパスをつなぐようになるのは、Jリーグ創設後、日本がワールドカップの常連となってからの話だろう。ずいぶんと時間がかかったことを今さらながらに思い知らされる。

 ヤンマー、三菱の両チームはその後も、この試合ほどではないが観客を集めた。しかし、最終的にタイトルを獲得したのは東洋工業で、第1回大会からの4連覇を達成。釜本、杉山に次ぐスタープレーヤーだったMF小城得達をはじめ、FW松本育夫、桑原楽之らの銅メダリストをそろえ、安定した力を発揮した。

 それでも得点王は14得点を挙げた釜本、アシスト王は8アシストの杉山で、2人は個人の力を証明してみせている。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める