1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第16回は圧倒的な攻撃力を誇った1977年のフジタ工業について綴る。

目撃者が限られた攻撃サッカー

ヤンマーを4-1で破り、天皇杯で初優勝。JSLと二冠を達成した。カップを掲げるのは今井敬三(写真◎サッカーマガジン)

 監督を務めたのは、のちに日本代表の指揮を執る石井義信。88年ソウル・オリンピックの予選を戦ったとき、当時のチーム事情から守備的なサッカーを選択せざるを得なかったことは、フジタ時代を考えれば、指揮官の本意ではなかったはずだ。

 同監督は初優勝した翌年のJSL年鑑のインタビューで「個人技にスピードを加味した“攻撃サッカー”が狙いだったわけですが、ウチの本当の強さの源泉だったディフェンス面が、驚異的と皆さんがおっしゃる得点力の陰に隠れてしまいました。守備力が安定していたからこそ、思い切った手も打てた」と話していた。チームの攻撃力を生かすために、守備をベースに考えていたことがうかがえる。

 ただ、皮肉にも当時は日本サッカーの「暗黒時代」で、この77年はJSLの1試合平均観客数が初めて2000人を下回り、史上最悪の1773人を記録している。

 フジタが初優勝を決めた第16節・東洋工業戦はアウェーとはいえ2000人(主催者発表、当時の慣例で実数ではない)に過ぎず、その前節、優勝に王手をかけたトヨタ戦はホームである東京・西が丘で行なわれ、カルバリオ、マリーニョが4得点ずつを挙げる活躍を見せて9-0のゴールラッシュで大勝しているが、観客は500人というありさまだった。

 新興チームゆえに、会社関係以外に応援する者は少なかった。外国人が中心となることへの拒否反応もあった時代だったとはいえ、その攻撃サッカーを楽しんだ人はあまりにも少なかった。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める