1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第14回は、即戦力を多数補強し、躍進した1983年の日産自動車について綴る。

JSL上位進出と天皇杯優勝

83年4月の読売クラブとの試合。木村和司(左)と金田喜稔(中央)が日産の攻撃の中心だった(写真◎サッカーマガジン

 6人の加入は新しい相乗効果も生み出す。前年までセンターフォワードでプレーしていた清水秀彦が柱谷にポジションを譲り、中盤のディフェンシブな位置に下がると、冷静な判断力と高い戦術眼を生かし、攻守のバランスを整える存在となった。

 また、当初は交代出場が多かった水沼が力を発揮するようになると、リーグ後期途中からは右ウイングに定着。これに伴って木村が中盤に下がったが、このコンバートは絶大な効果をもたらした。技術の高さに加え、独自のアイディアとひらめきを持つ木村が、パサーとして新境地を開いたのだ。

 木村が中盤でプレーした後期終盤は5連勝して、首位を走っていた読売クラブを慌てさせた。結局わずかに届かず、読売クが初優勝することになるが、日産も前年の8位から一気に2位へ躍進した。

 さらにJSL終了後に行なわれた天皇杯で日産は快進撃を見せる。田辺製薬を7-1、新日鉄を4-1、富士通を6-0と、いずれもJSL2部のチームを一蹴。迎えた準決勝でも、1部を3位で終えたフジタ工業を押し込み、常にリードを維持して3-2と勝って、初の決勝進出を果たした。

 84年元日の決勝は、釜本邦茂プレーイングマネジャー率いるヤンマーディーゼル。この大会に強く、過去3回の優勝を飾っている相手だった。しかし、勢いに乗る日産はヤンマーを圧倒し、前半こそ粘られて0-0に終わったが、後半に木村のチャンメークから柱谷、金田が得点して2-0で勝利をつかみ、チームにとって初のタイトルを獲得した。

 このシーズンを機に、日産は強豪への地歩を固めていく。加茂の豊かな発想と大胆な行動力が実現させた前代未聞の大補強は、1年でチームを躍進させた。

日産の6人の大型ルーキーを特集した、サッカーマガジン83年4月号の表紙。後列左から杉山、境田、越田。前列左から田中、柱谷、水沼。当時としては異例の大型補強だった

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める