1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第14回は、即戦力を多数補強し、躍進した1983年の日産自動車について綴る。

上写真=84年1月1日、第63回の天皇杯決勝で日産自動車はヤンマーを下して優勝した(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

加茂周監督が改革に乗り出す

 横浜F・マリノスの前身である日産自動車が、日本リーグ(JSL)1部に昇格したのは1979年のこと。74年に就任した加茂周監督の下、手堅い守備で着実に勝ち上がってきたが、わずか1年で2部へ逆戻りする。

 ここで加茂は「チームをモデルチェンジしなければ、日本一は到底望めない」と考えた。この年、すでに日本代表でも中心選手になろうとしていた、中央大の金田喜稔が日産に入ることが決まっていた。加茂は「金田が入ったのを契機に、技術を生かした攻撃的なチームにしようと決めました」と振り返っている。抜本的な改革に乗り出した。

 日産は81年に、金田の広島県工高時代の1年後輩である木村和司も明治大から加わり、チームも再び1部に昇格する。そして83年に、驚くべき補強を実現させた。DF田中真二(中央大)、越田剛史(筑波大)、杉山誠(東京農大)、MF境田雅章(愛知学院大)、FW柱谷幸一(国士舘大)、水沼貴史(法政大)と、当時JSLのチームにとって最大の選手供給源である大学から、トップクラスの選手を6人も加入させたのだ。

 このうち境田を除く5人が、79年に日本で開催されたワールドユース大会(現U-20ワールドカップ)の日本代表であり、境田も候補に入っていた。田中、越田、柱谷はすでにA代表にも選ばれており、水沼もほどなく選出されるなど、代表クラス6人を一気に獲得したと言ってよかった。

 同年4月号のサッカーマガジンでは、表紙からこの6人を特集した。編集部に入る前だった筆者も、どんなチームができるのかと期待を膨らませたものだ。まだ情報が少なかった時代に、同じ思いを抱いたサッカーファンは多かったはずだ。

 日産にはすでに金田、木村という日本代表のテクニシャンがいる。さらにフジタ工業で2度のJSL優勝に貢献したブラジル人MFアデマール・マリーニョも、当時のアマチュア資格に抵触したことで課された、1年間の出場停止が明けようとしており、戦力は整いつつあった。