1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第11回は偉大なるストライカー、釜本邦茂の大記録について綴る。

上写真=81年11月1日の本田技研戦で通算200得点を記録。左足で決めた一撃は同点ゴールだった。さらに頭でチームの4点目を決め、201点目も刻んだ(写真◎BBM)

200得点という大記録

釜本邦茂が日本リーグ(JSL)で通算200ゴールを決めたのは、1981年11月1日、神戸中央球技場で行なわれた第15節、本田技研との試合だった。

 このとき、私はまだサッカーマガジン編集部に入る前で、首都圏の試合であればファンの一人として足を運んでいただろうが、神戸が会場とあってそれもできず、テレビ中継もなかったため、その日のスポーツニュースで知った。ただ、事前の報道であと2点ということを知っていたので、大きな驚きではなかった。というのも200ゴールの価値を正確には認識しておらず、釜本が得点記録をつくることも珍しくなかったからだ。

 それでも当時のサッカーマガジンは賢明にも(当然?)、200ゴールの場面で表紙を飾り、82年の1月号ということもあって金色のバックで際立たせていた。

 改めてその記録の偉大さを認識したのは、サッカーマガジンの編集に携わるようになり、91年にJSLが最後のシーズンを迎えて27年の歴史を振り返ったときだった。通算得点ランキングを見ると「1位釜本邦茂、202点、2位碓井博行、85点」とある。2位は100点にも達していなかった。

 碓井ももちろん優れたストライカーで、日本代表でもプレーし、JSLでも2度得点王になっているが、それでも85点なのだ。

 釜本は1967年から83年まで17シーズン、251試合に出場して202得点を挙げた。その間に得点王には7回輝き、アシストも通算79を記録して、こちらも歴代1位だ。アシストは華麗なスルーパスやサイドを破ってのクロスばかりではなく、シュートの跳ね返りやこぼれを決めた際には初めにシュートした選手につくので、そういうアシストも多かったのだろう。

 いずれせよ、いかに得点に絡んでいたかが分かるというものだ。

 右45度からの右足インステップキックでのシュートは正確に逆のネットを揺すり、本人の言葉を借りれば「右が警戒されるから、切り返して左足のシュートも練習した」と言うように、バリエーションを広げた。200ゴールを達成したのも左足のシュートだった。そしてヘディングの強さも際立ち、202点のうちヘディングでのものが35点と、2割弱を占める。体格にも恵まれ、ストライカーとして幅広く、高い能力を備えていた。

 釜本が挙げた202点は、251試合で記録したもの。1試合平均0.8得点という計算になる。現在のJ1リーグ最多得点記録は大久保嘉人の185ゴール。これは448試合で記録しているから、1試合平均では約0.41得点にとどまる。リーグのレベルが異なるにしても、その差は歴然だ。

釜本超えを果たしてくれたら…

 日本サッカーは「釜本二世」を求めて彼がピークを過ぎたあと20年間、低迷した。同じタイプのストライカーを求めすぎたことが失敗だったのか。

 確かに、岡崎慎司のようなタイプでも日本代表の先鋒を務めることはできたはずだ。しかし、釜本と並ぶ、あるいは超える「本格派」ストライカーの登場は日本サッカーにとって見果てぬ夢でもある。

 その意味で期待したいのが東京五輪のCF候補、小川航基だ。17年のU-20ワールドカップで負ったケガの影響もあり、ここ数年はなかなか本領発揮といかなかったが、昨季水戸でプレーし、その凄みが戻ってきた。体格、シュート力、ゴールへの意欲など、釜本を彷彿させるものがある。桐光学園3年のとき、高校選手権3回戦で青森山田を相手に決めた「右45度」の右足シュートには釜本以来の衝撃を覚えた。

 金メダル獲得で釜本超えを果たしてくれたなら、Jリーグ以前からのファンにとって、これ以上の喜びはない。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める