「中盤の人」をテーマに、日本サッカー界の新旧ミッドフィルダーたちに思いを馳せる当コラム。今回は90年代なかばのエピソード…。憧れの存在だった日産自動車で黄金期の中心であり、マリノスの礎を築いた木村和司と水沼貴史について綴る。

「質問がなかったらどうしようかと…」

日産自動車時代から技巧派として知られ、Jリーグ開幕後はマリノスの攻撃の中心として活躍した水沼(写真◎BBM)

 そしてその翌日に、今度は水沼が引退を発表して驚かされた。木村の引退試合ではどちらもフル出場。水沼にとっても「引退試合」だったのだ。でも、木村への配慮で発表を控えていたのだという。

 のちに記者会見で、水沼はこう話した。

「自分の口から引退を伝えたかった。体が疲れたのではなく、心が疲れたのが引退の理由です」

「このチームが大好きだから、移籍することは考えなかった」(週刊サッカーマガジン1995年8月23日号より)

 実は、木村のときと同じように、水沼からも心に残る言葉をもらったのをよく覚えている。引退会見というと、よくある質問(思い出のゲームは? 一番うれしかったゴールは? 家族にはいつ、どんな風に伝えて、どんな言葉が返ってきた? など)が続いて、それが一通り終わると、さあ、盛大な拍手で送り出そう、という雰囲気になる。

 ところが突然、「このまま聞きたいことを聞かないままでは、ものすごく後悔するに違いない」と激情にかられた私は、そこから次々に挙手して質問を重ねていった。まるで空気を読んでいなかったようで会見が長引いてしまった。

 またしても赤面である。これは偉大なフットボーラーの大事な引退記者会見なのだ。それを余計な質問で台無しにしてしまったではないか。急に怖くなって、会見場を出たところで謝ろうと思って所在なく立って待っていた。

 すると、水沼の方から向かってきた。体が硬直した。「たくさん質問してくれてありがとう。引退するのに質問がなかったらどうしようかと心配してたんだよ」。お礼を言われるとは思わなかった。こちらはもう、ただひたすらに頭を下げるしかなかった。

 のちに1998年から週刊サッカーマガジンで「水沼貴史のこいつにキラーパス」という連載が始まった。水沼が旬の選手たちにインタビューしていって、素顔をあぶり出していくという内容だ。当時の編集長はこの連載の担当者として、私を指名してくれた。ありがたかった。どんな仕事よりも真っ直ぐに向かっていけた気がする。いや、それはもう「仕事」ですらなく、「仕事以上」のものだった。

 ただもう一つだけ、水沼に謝りたいことがある。

 この大事な連載のタイトルを、あまりにも安直というか、はっきり言ってかっこ悪いベタなものにしてしまったことを、どうかお許しください。

木村和司の引退試合。ミスターマリノスを担いでいるのは井原正巳(左)と松永成立(写真◎BBM)

93年に創設されたJリーグのオープニングゲーム(5月15日)、ヴェルディ川崎対横浜マリノス。写真の水沼、木村ともフル出場し、2-1の勝利に貢献した(写真◎BBM)