1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第9回は苦難を乗り越え、アジアを制した古河電工について綴る。

ブンデスリーガで9年間プレーし、86年にドイツから帰国して古巣の古河電工に復帰した奥寺。アジア・クラブ選手権の初優勝に大きく貢献した(写真は同年のJSLの試合)

文◎国吉好弘 写真◎BBM

86年当時のアジアクラブ選手権

 2017年の浦和レッズに続き、2018年は鹿島アントラーズがAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を制し、アジアのクラブチャンピオンに輝いた。これまで19の国内タイトルを獲得してきた鹿島にとっても初の国際的な公式大会での優勝だった。

 当然、日本でも大きく報道され、サッカーファンならずとも日本のチームの活躍を喜んだことだろう。しかし、今から34年前に初めて日本のチームがアジアチャンピオンとなったとき、その快挙が広く知れわたることはなく、現在でも話題にのぼることは少ないと感じる。

 1986年12月、サウジアラビアのリヤドで行なわれたACLの前身である第6回アジア・クラブ選手権(Asia Club Championship)決勝大会において、1985年の日本リーグ(JSL)チャンピオン、古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)は3戦全勝して初優勝を飾ったのだった。

 この大会はアジア・サッカー連盟(AFC)主催で、アジアのクラブチャンピオンを決める大会として1967-68年に始まり、2度の中断をはさんで85-86年シーズンに再開されていた。まだ、その存在も、意義も各国に浸透しておらず、日本も第2回大会に東洋工業が参加して3位となったが、その後は日程の問題もあり出場を見合わせていた。

 この86年も6月に1次予選が始まったものの、2次予選は10月にアジア大会があったために12月に延期となり、マレーシアで2試合を行なって、古河はマカオのハップ・カーンを3-1、マレーシアのセランゴールを2-1で破った。すると、年明けの1月に行なわれる予定の決勝大会が急きょ、12月中に開催されるとの情報が入る。天皇杯と日程が重なるため辞退も検討されたが、日本協会との話し合いの末に天皇杯を棄権して参加するというドタバタだった。

 しかも、決勝大会は開催国サウジのアルヒラル、イラクのアルタラバ、中国の遼寧省と4チームによる総当たり戦で26日、28日、30日と、わずか5日間で全日程をこなす、今では考えられないハードスケジュールだった。

レフェリーの不公平に納得がいかない(清雲監督)

 この年の古河はリーグ戦中断までの6試合で1勝1分け4敗と不振。サウジとの気温差は20度以上もあるという厳しい条件の中での戦いだった。さらに初戦のアルヒラル戦をはじめ、レフェリーのジャッジはあからさまに相手寄りで、帰国した後、清雲栄純監督が「優勝したのはうれしいが、レフェリーの不公平さにはどうしても納得がいかない。うれしさも半減です」(サッカーマガジン87年1月号)とまで語ったほどひどかった。

 そんな戦いの中で古河は驚きの踏ん張りを見せた。大観衆に後押しされたアルヒラルがやや甘く見ていた感もあり、リベロの岡田武史、守備的MFの宮内聡を中心とした堅い守りで対抗。31分にCKから先制されるが、ここから違いを見せたのが9年間プレーしたドイツから復帰していた奥寺康彦だった。

 40分に右からのクロスが流れてきたところを蹴り込み同点に。後半に入って早々に昨季のJSL得点王の吉田弘が逆転ゴールを決めると、50分、57分と奥寺が連続ゴールで4-1と突き放した。アルヒラルもここから猛反撃に転じ、2点を失うが、4-3で逃げ切った。

 第2戦、第3戦もレフェリーの判定は露骨だったが、これにも耐えてアルタラバを2-0、遼寧省を1-0で下し、3戦3勝で文句なしの優勝を果たした。

 数々の苦難を乗り越えてアジアチャンピオンとなった古河。日本サッカーにとっても全アジアでの初タイトルであり、もっと称えられてよかった。歴史に埋もれさせてはいけない、快挙である。