1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第7回は1975年の永大産業について綴る。

上写真=第54回の天皇杯。決勝でヤンマーに敗れはしたが、永大産業(白いユニフォーム)の快進撃が注目を集めた(写真◎BBM)

文◎国吉好弘 写真◎BBM

天皇杯決勝に進出

 1974年の日本リーグ(JSL)1部に新しいチームが加わった。永大産業だ。サッカー部の活動を始めたのは72年で、創部わずか2年で当時の日本最高レベルのリーグに登場してきた。

 この年のJSLで前期は5分け4敗と1勝もできなかったが、3人のブラジル人を加えた後期には4勝を挙げて旋風を巻き起こす。リーグ戦は結局9位に終わったが、天皇杯では決勝まで進み、75年元日にヤンマーと対戦して1-2で敗れたものの、準優勝という結果を残した。

 山口県熊毛郡平生町を本拠地とする、永大木材山口工場のサッカー同好会としてスタートしたチームは、1971年に山口県リーグ3部で全勝優勝すると、県ナンバーワンを争う「野上杯」でも優勝し、特例として1部へ昇格。

 72年1月に永大産業サッカー部として正式に発足し、前年で休部となった元JSL1部の名古屋相互銀行から大久保賢監督、塩澤敏彦ら6人が移籍して、のちにエースとなる地元出身の中村道明(多々良学園高卒)も加わって戦力が整った。

 会社は平生町に芝生のグラウンド2面をはじめ、クラブハウス、若手の寮なども建設してハード面も充実させた。翌年には県リーグ1部で優勝、まだ中国リーグが組織される以前だったため、予選を勝ち抜いて出場した第8回全国社会人大会にも優勝して、JSL2部昇格を決めた。

 ここでも初年度に優勝を果たすと、当時は自動入れ替えではなく、1部最下位の田辺製薬との入れ替え戦を勝ち抜かなければならなかったものの、第1戦で1-2と敗れながら、ホームでの第2戦は2-0と勝ち、2戦合計3-2で1部昇格を達成した。

 そして74年のJSL1部では前出のように、前期こそ1部のレベルに戸惑うところもあったが、ジャイロ、ジャイール、アントニオと、ブラジルからの助っ人3人を中盤に並べた後期は4勝を挙げ、天皇杯では途中2試合をPK戦で勝ち抜く幸運もあったとはいえ、決勝進出を果たした。

 特にジャイロの個人技、ジャイールの攻撃のアイディアは1部でも抜けていた。

現代サッカーに通じる考え

 75年には、72年に藤和不動産でプレーしたセルジオ越後がコーチとして加わり、日本人とブラジル人との連係を深めるとともに、その指導で日本人選手の技術も向上させた。大久保監督はオフサイドトラップを多用する戦術を駆使しており、のちに監督を引き継いだ塩沢コーチも、当時のサッカーマガジンの誌面の中で「FWとBK(DF)のラインの幅を狭くして、そこで積極的にボールを取りにいく。裏へ出されても(最終ラインが)前へ出ているからオフサイドが取れる」と語っていた。現代サッカーにも通じる考えを実行していたのだった。

 さらに若手中心の2軍チーム(当時の報道)を作り、地域の子どもたちにサッカースクールを開いて指導。やはり現在のJリーグの地域密着に通じる、先進的な活動も手掛けていた。

 75年のJSL1部では5位に順位を上げ、ここまでは順風満帆に見えた。ところが親会社が業績不振に陥り、事態は一変する。76年春に「廃部」の報道が新聞紙上に躍り、チーム関係者は存続の道を探って交渉を続け、何とか同年のJSLには参加したが、「会社の経営危機に、スポーツへの投資はできない」との理論に押し切られる。永大産業は2年後には倒産の現実を突きつけられ(のちに再生)、救いの道はなかった。

 企業スポーツの宿命、あるいは限界と言ってしまえばそれまでだが、あまりにも短期に頂点近くまで駆け上がり、はかなく消えたチームに、サッカー界は何かを学んだのだろうか。