1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第4回は1991年のコニカカップについて綴る。

上写真=決勝戦で11ゴール目を決め、喜びを爆発させるクリシューマ(写真◎BBM)

文◎国吉好弘

優勝チームに3000万円

 日本のトップカテゴリー(第一種)チームが目指すべきタイトルと言えば、まずJリーグ、アマチュアも含めすべてのチームに参加資格がある天皇杯全日本選手権大会、さらにルヴァンカップ(Jリーグカップ)があり、すべてを勝ち取れば「3冠」達成となる。

Jリーグ以前の日本リーグ(JSL)の時代にも、天皇杯はもとより存在し、1976年からJSLカップが始まって、3つのタイトルが争われるようになった。そして、アマからプロへと移行する端境期の90年、91年の2年間に、4つ目のタイトルとして、3つ目となるカップ戦が開催されていた。

 写真フィルム・メーカーのコニカがスポンサーとなり「コニカカップ」と謳われた大会は、3年後にスタートするプロリーグを見すえて、その前哨戦、あるいは予行的に始まった。同時に世界への道を拓けないオリンピック代表(U-23)、ユース代表(U-19)の強化も兼ねていた。

JSLの12チームを二つに分け、そこに二つの年代別代表を加えて7チームによるリーグ戦の後、両グループの2位までが準決勝に進む方式だった。引き分けた試合でのPK戦採用や、得点2に対して勝ち点1が加えられるなどの新しい試みも盛り込まれ、優勝チームには3000万円の賞金が用意された。

 しかし、年代別代表は候補選手を招集することがスケジュール的に困難で、監督が呼びたい選手を集めることができなかった。

 何とかチームを編成して試合をこなすだけとなり、強化につながったとは言い難かった。2年目の91年にはオリンピック代表だけに絞ったが、状況はあまり変わらなかった。

2回で終わったカップ戦

 結局大会は2回で終わり、Jリーグのスタートとともに忘れ去られてしまうのだが、その最後の試合となった91年大会の決勝戦は、日本サッカー史に残る激闘が展開された。

 これまで大きなタイトルを獲得したことのないトヨタ自動車と本田技研の対戦というのも驚きだったが、結果はさらにすさまじく、両チーム合わせて11ゴールが乱れ飛んだ。

 先手を取ったのはトヨタ。ブラジル人FWクリシューマが20分に相手GKのパンチングミスを蹴り込んだ。だが、本田もすぐに反撃した。このシーズン終了後にはプロ化しない本田を離れて鹿島へと移る選手の1人、長谷川祥之が3分後に同点とする。

 トヨタはさらに攻め込み、翌年に名古屋グランパスエイトへ移行してプロとなる江川重光、沢入重雄が加点。本田も内藤就行が決めて3-2とトヨタ1点のリードで前半が終了した。

 後半に入ってもゴールラッシュは止まらず、50分に黒崎久志が3-3と追いつくシュートを決めると73分には佐藤辰男がCKから決めてトヨタが三度リードする。だが本田も81分にロベルトが強烈なミドルシュートで追いつき4-4のまま延長戦に突入。ここで100分にロベルトが再びミドルシュートを突き刺して5-4とし、本田がこの日初めてリードを奪った。

 しかし、トヨタも怯まず後半に入って116分にクリシューマが決めて5-5、さらにロスタイムに入ってまたしてもクリシューマが鮮やかなボレーで6-5と勝ち超し、激戦に終止符を打った。

 タイムアップの笛が鳴り、創部52年目にしてトヨタが初のタイトルを獲得した。プロ化を前にして「得点が入らないからつまらない」というアンチ・サッカー派の言葉を一掃するような決勝戦だった。