1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第2回は1984年の衝撃のポスターについて綴る。

上写真=左が当時話題となったポスター。右は現役時代の釜本邦茂(写真◎BBM)

文◎国吉好弘

観客動員を増やすために

 1984年5月4日、首都圏、大阪などの主要駅に、道行く人の目を引く一種異様なポスターが貼り出された。筋骨たくましい男性が全裸で背を向け、何かを踏みつけている。その姿が圧倒的な存在感を放っていた。右に「格闘技宣言。」の文字があり、左側には1984 JAPAN SOCCER LEAGUEとあった。

 踏みつけていたのはサッカーボール、男は日本サッカー界のレジェンド、釜本邦茂だった。

 この年日本サッカーリーグ(JSL)は1965年のスタートから20回目のシーズンを迎えようとしていた。しかし、サッカー人気は低迷したままであり、68年メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した直後には1試合平均7000人を超えたJSLの観客動員数が、72年には5000人を割って3000人台にまで落ち、77年、81年には1000人台と絶望的な数になっていた。

 危機感を募らせた関係者の努力で、82年に2000人台に戻し、83年は2765人と右肩上がりに。そして20年の節目に、さらなる集客アップを狙ってプロジェクトチームが立上げられた。

 さまざまなアイディアが練られ、現状を打破するためのキャッチフレーズとして激しく戦う姿勢を示す「格闘技宣言。」が採用された。ポスターもインパクトのあるものをと、前年に現役を引退した釜本が引っ張り出された。

 アマチュア時代のこととはいえ、歴代最多、他の追随を許さない202ゴールを挙げたストライカーは、この要請を日本サッカーのためならと、ノーギャラで快諾したという。

W杯は別次元の大会だった

 しかし、開幕を迎えるにあたってサッカー界は厳しい逆風に見舞われていた。4月下旬までシンガポールで行なわれたロサンゼルス五輪アジア最終予選に臨んでいた日本代表が、今回は突破できるのではないかという期待を裏切り、4戦4敗で敗退したのだ。

 当時の日本代表は五輪出場が最大の目標であり、ワールドカップは別次元の大会だった。その五輪でもメキシコの後4大会連続出場できず、サッカーにおいてはアジアでも二流、三流である現実を突きつけられていた。

 そんな状況にもかかわらず、ポスターのインパクトは絶大だった。

 駅構内や新聞紙上に現れた釜本の姿は大きな注目を集め、さまざまなメディアにも取り上げられた。「その経済効果は1億3000万円に相当した」と、翌年のJSL年鑑に記されている。

 日本代表は振るわなかったが、JSLでは前年に読売サッカークラブ(現東京V)が初優勝を飾り、それまでの企業チーム主体の流れが変わっていた。読売に対抗する日産自動車(現横浜FM)も、既存の企業チームとは異なり、将来のプロ化を見据えていた。

 両チームは読売クがブラジル流のテクニックを駆使し、日産はよりスピーディで変化のあるサッカーと、スタイルは異なるが、ともに魅力ある攻撃的なサッカーを展開したことも、見る者をひきつけた。この年の観客数は10年ぶりに1試合平均で3000人を突破、3461人となった。

 さらに86年には5000人を突破する流れをつくったという意味で、文字通り一肌脱いだ釜本の貢献は無駄ではなかった。しかし、本当に世界に近づくためにはやはりプロ化が不可欠だと、機運が高まるのはこの後になる。(文中敬称略)

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める