上写真=1993年5月16日、鹿島対名古屋でハットトリックを決めたジーコ(写真◎BBM)
ジョホールバルのタクシー
自虐的に薄笑いするしかないのだけれど、僕の記憶はいつもあやふやだ。
大事なことはまったく覚えていないのに、いつになっても何の役にも立たないことばかり覚えていて、まったく関係ないときに不意に思い出す。例えば、せっかくジョホールバルの歓喜(1997年11月16日、フランス・ワールドカップ予選アジア第3代表決定戦)を現地で取材したのに、鮮明に覚えているのはタクシーの運転手のこと。
試合が終わって取材したら、すぐにホテルに帰って原稿を書かなければならなかった。そのためには試合後に移動するための足を事前に確保しておかなければならない。スタジアムに行くときに乗せてくれた運転手に帰りの予約を取り付け、待ち合わせ場所も決めて値段も交渉して、ということを、何度も何度もしつこく繰り返した。ただ、お互いにブロークンな英語で怒鳴り合う勢いで会話したので、本当にタクシーが待ってくれているか不安で不安だった。
実際にちゃんと待っていてくれたときの安堵感!
というわけで、覚えているのは「ジョホールバルの歓喜」ならぬ、「ジョホールバルのタクシー」なのであった。
そういうわけなので、1993年5月15日に華々しく行われたJリーグの開幕戦、ヴェルディ川崎対横浜マリノスの試合の記憶も「双眼鏡」と「ケーキ」だ。
当時のサッカーマガジンではJリーグ10クラブに1人ずつ、担当者を置いていて、この93年4月1日に入社したばかりの私が仰せつかったのが横浜Mだった。
ある先輩は「担当ということになれば、開幕戦の取材ができるね。おめでとう!」と言ってくれた。入社1カ月半の小生意気な若造に歴史的一戦を取材させてくれるなんて、何と素晴らしい編集部なんだ!
と感動に震えた。
しかしもちろん、世の中はそんなに甘いものではなく、というか諸先輩方に失礼で、取材チームに入れるスキがあるわけはない。だから、自宅で見ることにした。
その前に、やらなければいけないことがあった。今後のために、取材の七つ道具の一つである双眼鏡を買っておかなければならない。同期入社の北條聡(のちに編集長。現フリーライター)と吉祥寺に出掛けて手に入れた。そんな寄り道をしていたものだから、自宅に着いたのは開幕戦のキックオフの少し後になってしまった。
慌ててリビングに駆け込むと、もちろんテレビではライブ放送中。テーブルにはご馳走だ。そしてケーキ。Jリーグの開幕という素晴らしい日をサッカー好きの家族全員で盛大に祝う…のもまあそうなのだが、この日は私の誕生日でもあった。
というわけで、マイヤー(V川崎)のJリーグ初ゴールも、エバートン(横浜M)の同点ゴールも、ディアス(横浜M)の逆転弾もうっすらと憶えてはいるけれど、それに比べればどうでもいいような双眼鏡とケーキのことの方が鮮明なのである。
初めての取材ノートから
私にとっての「Jリーグ開幕」は翌16日、横浜の三ツ沢球技場で行われた横浜フリューゲルス対清水エスパルスの一戦だった。初めてプレスパスを着用して取材に臨む高揚感と緊張で、こちらもまた大事な記憶が抜けている。
そこで、当時の取材ノート(つまり、私にとって初めての取材ノート)を開いてみる。いまでもひっそりと保管してあって、26年たっても目立った破損はなく、文字もくっきりと残っている。意外なことに、初めての取材でそのイロハも分からないなりにいろんなことが書き込んであった。
大事なメンバー表の記載が雑だったり抜け落ちたりしているのは我ながら苦笑したが、先輩に命じられたのか、試合前からサポーターの取材を試みていたようだ。アウェーに詰めかけた清水のサポーターに関するメモ書きがある。
彼らの名前は「シャペウ・ラランジャ」といって、ポルトガル語で「オレンジ色の帽子」という意味であること。総勢800人ほどがバスに分乗して静岡からやって来たこと。週に一度は応援の練習を行い、毎回100人ぐらいが集まること。小学生から70歳代まで多くの世代が仲良くなってとてもまとまりがあるのが自慢だということ。対戦相手の横浜Fのサポーターには「Jリーグの成功のために敵同士頑張ろう!」とメッセージを送りたいこと。そんなことが走り書きしてある。
始球式として、ヘリコプターがボールを運んできて、上空からセンターサークルに見事に落としていったことも書いてある。そういわれれば、そんなことがあったような。
これは覚えているのだが、横浜FのGKには森敦彦が先発として起用された。ドレッドヘアがとにかく目立つ若手が、大方の予想を覆して大抜擢されたから、記憶に残っているのだろう。あるいは、試合後の囲み取材で初めて質問を投げかけた選手が彼だったからかもしれない。内容まではさすがに忘れていたのだが、ノートにはこうあった。
「昨日、スタジアムでフリーキックの練習には出たんですけど、(先発起用は)今朝正式に発表されました」
「昨年はケガでサテライト(セカンドチームのリーグ)で1試合しか出ていません」
「試合前のミーティングでは盛り上がっていい雰囲気で、緊張せずに行こうと言われたんですけど、少しビビりました」
「リズムのあるプレーが得意です。今日は勝ててよかった(3−2で横浜Fの勝利)」
ほかにも記者会見についてコメントが殴り書きしてあるのだが、いま振り返って興味深いのは、マーチン・ボデナムさんのコメントだ。この試合のレフェリングを担当したイギリス人主審である。
驚いたのは、いきなりべた褒めだったことだ。
「昨日のゲーム(開幕戦)と今日のゲームで、イングランドのプレミアリーグで6人はプレーできるし、その下の1部リーグだったら全員できますね。ミッドフィルダーの技術は高いし、フォワードはボールのないところでのプレーが素晴らしい」
「スタジアムについても、国立競技場もこの三ツ沢もイングランドではトップ6に入るのではないか」
接触プレーでもあまり笛を吹かずにプレーを続けさせていたのではないかと問われると、
「最初の20分ほどはジャブの打ち合いのようだったが、その後は流れるようなプレーが続いたので、笛を吹く必要はなかった」
と話していた。さすがに褒め過ぎというか、開幕の舞台に華を添えるかのようにリップサービスも大盛りだったが、のちに本当にプレミアリーグでプレーする日本の選手が現れたのだから、ある種の予言だったと言えなくもない。
謎が解けた!
ところで、このJリーグ開幕を報じたサッカーマガジン6月20日号、表紙はジーコだった。5月16日の鹿島アントラーズ対名古屋グランパスエイトの試合で鹿島が5−0で大勝するのだが、ジーコが衝撃のハットトリックを達成したあと、満面の笑みで両手を突き上げる美しい写真が使われている。
…のだが、よくよく考えてみると不思議な話である。普通なら、ここは歴史的開幕戦となったV川崎対横浜Mの試合のシーンや華やかな開幕セレモニーなどが定番なのではないだろうか? 巻頭のカラーグラビアでは開幕戦に最も多くのページを割いていたわけだし、謎だ。
残念ながら、表紙を決めた当時の千野圭一編集長は鬼籍に入られているので、副編集長だった国吉好弘さんに聞いてみた。どうしてジーコだったんでしょうか?
「さすがに覚えてないけど、千野が決めたんじゃないかな。あのとき、鹿島に行ってあのハットトリックを見てたしな」
「ただ、写真は本当に素晴らしかったし、千野の頭には、他のメディアがヴェルディとマリノスの写真で表紙を作ってくるだろうと読んでいて、うちは堂々と独自性を出そうという思いもあったんじゃないかな」
国吉副編集長と千野編集長は高校で一緒にボールを蹴っていた仲である。千野編集長が説明せずとも、サッカーマガジンがサッカーマガジンであることを追求していくという強い意思は手に取るように分かったのかもしれない。
国吉さんと話していて、のちに私が編集長の大役を仰せつかったとき、2006年ドイツ・ワールドカップでグループステージ敗退が決まったブラジル戦のリポートを掲載した7月11日号で、表紙に使う写真に悩んだことを思い出した。
試合終了と同時に中田英寿がピッチの上に大の字に寝そべってしばらく動けなくなったことが話題となったが、普通なら、敗退の象徴としてその姿を俯瞰で捉えたショットを採用するところだ。のちにこのときには引退を決意していたと分かるのだからなおさらで、現に他の媒体ではほとんどがそれだった。
悩みに悩んで朝になり、決めた。採用したのは、中田が左腕で涙を拭うようにした顔のドアップの写真だ。表紙なのに顔が見えていないという非常識な一枚だったかもしれないが、写真そのものに力強い説得力があったし、大事な表紙をほかのメディアと同じものにはしたくなかった。一度決めたら清々しかった。
もしかしたら、Jリーグ開幕でジーコの写真を採用するという、千野編集長が示した独自性の魂のようなものを、あのとき私も受け継いでいたのかもしれない。
ところで、1993年5月15日に吉祥寺で手に入れた双眼鏡は、いまでも取材のときに大いに活躍してくれている。自分でも物持ちが良すぎるのもどうかと思うが、まだ新しいものを使う気にはなれない。ジーコと中田英寿の写真を選んだ、あの独自性を大切にするのと同じように。
文◎平澤大輔(元週刊サッカーマガジン編集長) 写真◎BBM