上写真:初優勝を飾った日本。史上初の外国人監督の就任など、大きな変化があった1年を最高の形で締めくくった
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現地時間1月5日にUAE(アラブ首長国連邦)で開幕するアジアカップ。森保一監督率いる日本代表は9日のグループステージ初戦を皮切りに、2大会ぶり5回目の優勝を目指すことになる。そこでWEBサッカーマガジンでは特別連載として、史上最多となる過去4回の優勝を大会ごとにプレイバック。第1回は、地元・広島が初制覇の歓喜に包まれた1992年大会を振り返る。
「魂込めました、足に」
日本代表は94年アメリカ・ワールドカップ(W杯)出場を目指し、92年3月に史上初の外国人監督としてハンス・オフト氏が就任。8月には韓国、中国、北朝鮮と争ったダイナスティカップで初優勝を飾るなど、成果が表れつつあった。そんな中、10月末から11月にかけて広島でアジアカップが開催。報道陣はこぞって好成績を期待したが、オフト監督は「私の仕事と、われわれの目標は、来年のW杯予選」と語り、この大会も「W杯予選へのプロセス」と言い続け、チーム強化の一環という姿勢を崩していなかった。
迎えたグループステージ初戦はUAEと対戦し、0-0で引き分け。北朝鮮との第2戦は、29分に先制される苦しい展開となった。69分にPKのチャンスを得たものの、カズ(三浦知良)が決められず、重苦しいムードが漂う。だが80分、交代出場の中山雅史が、カズの右CKをヘッドで合わせる。ゴールライン上で相手選手にクリアされたかに見えたボールはゴールインの判定となり、何とか1-1の引き分けに持ち込んだ。
第3戦の相手はイラン。日本はグループステージを突破するためには勝つしかなかった。一方のイランは引き分けでも突破が決まるため、当然のように守りを固める。日本は攻めあぐね、0-0のまま試合は進んだ。
オフト監督はハーフタイムに、0-0のまま試合終盤に入った場合に備えて「残り20分を切ったら、前線からプレスをかける。残り10分になったら後ろ(最終ライン)には3人だけ残して、守備陣も攻めに出ろ」と指示を出していた。53分にイランに退場者が出て数的優位に立った日本だが、なおも得点を奪えない。残り10分、主将の柱谷哲二は3人を残すという指示を破り、「自分の判断で2人を残し、井原(正巳)も攻めに参加させた」という賭けに出る。
この判断が劇的なゴールを生む。85分、攻め上がっていた井原のスルーパスから抜け出したカズが、右足で決勝点をたたき込んだ。報道陣も総立ちとなった劇的なゴールに、スタンドも興奮。会場の広島ビッグアーチ(現エディオンスタジアム広島)の大歓声は背後の山に反響、学園祭が行なわれていた近くの大学まで響き渡り、『何かあったのか』と構内が騒然となったほどだった。
試合後、NHKのインタビューに答えたカズも興奮冷めやらぬ表情で「思い切って、魂込めました、足に」と語った。ニアサイドに決まったシュートは、実はコースが甘く、相手GKが早く倒れていなければ止められていただろう。ところが報道陣から聞かれるまで、カズはファーサイドに決まったと思い込んでいた。決めた本人も覚えていないほど人々を熱狂させた、日本代表史に残る劇的なゴールだった。
「気が付いたら優勝していた」
当時のアジアカップは8カ国の参加で、決勝トーナメントは準決勝から。相手は中国で、前述のダイナスティカップでは2-0と勝っているが、この日は開始30秒で先制され、そのまま0-1で前半を終えた。
日本は後半に入ると反撃に転じ、48分に福田正博が同点ゴールを決めると、57分には北澤豪の国際Aマッチ初ゴールで逆転に成功する。ところが60分、GK松永成立が接触プレーの後に相手選手を蹴りつけてしまい、退場に(GKの退場は日本代表史上初)。日本は北澤を下げてGK前川和也を投入したが、70分、その前川が何でもないボールを後ろにこぼすミスから同点とされた。
数的不利の中で追い付かれた日本だが、地元の大声援の後押しを受け、勢いは衰えなかった。84分、ラモス瑠偉-堀池巧-福田とつないで右サイドを破ると、福田のセンタリングを交代出場の中山がヘッドで決める。北朝鮮戦、イラン戦に続く試合終盤のゴールで勝ち越した日本が3-2で勝ち、決勝に駒を進めた。
決勝の相手は大会2連覇中で、当時アジア最強と目されていたサウジアラビア。日本は中国戦で退場処分を受けた松永に加え、中盤の要だった森保一も警告累積で出場停止だった。しかし日本は序盤から主導権を握り、テンポ良くパスをつないでチャンスをうかがう。
そうするうちに37分、左サイドで都並敏史からパスを受けたカズがセンタリング。これを高木琢也が胸トラップから、落ち際を左足ボレーで合わせて先制した。決めた高木が「カズさんからボールが来た瞬間、まるでピッチ上がスローモーションのようになった。DFの動きが把握できて、胸トラップの直前にはGKが先に動き始めるのも見えました。左足ボレーまで、イメージ通り」と振り返る、鮮やかな一発だった。
リードを奪った日本は、その後も攻守に安定したプレーを続ける。1-0で折り返した後半に何度かゴール前まで攻め込まれたが、大会初先発のGK前川など守備陣が冷静に対応。追加点こそ奪えなかったものの、そのまま1-0でタイムアップを迎え、ついにアジアの頂点に立った。
試合後、柱谷は「気が付いたら決勝に来て、優勝していた」と、無心での戦いだったと振り返っている。オフト監督が語った「W杯予選へのプロセス」という意識の影響もあっただろうが、貴重な経験に加えて結果も出るという、収穫の多い大会となった。
当初は広島県内でも、大会が行なわれていることを知らない人がいたほどだったが、決勝は5万人の大観衆で埋まり、日本中の注目を集めた。翌年5月のJリーグ開幕を控えていた日本サッカー界が、現在まで続く新しい時代の扉を開いた初優勝だった。
※次回は2000年レバノン大会を振り返ります