2004年の中村憲剛。当時からサポーターにとって重要な選手だった(写真◎J.LEAGUE PHOTOS)

Jリーグの創設25周年を記念して、当時を知る記者がその歩みを振り返っていくこのコラム。四半世紀を経てリーグを取り巻く環境が大きく変わっていく中で、開幕当時にはなかった言葉がたくさん生まれている。その一つが「バンディエラ」。イタリア語で「旗頭」を意味するこの言葉、「一つのクラブで長くプレーを続ける中心選手」と広義に解釈されている。そんな一人の選手との久々の再会で感じたこと。

文◎平澤大輔(元サッカーマガジン編集長) 写真◎J.LEAGUE PHOTOS

空に月、眼前に笑顔

「いい顔してるねえ」

 久々の再会なのに、ろくにあいさつもせずについ本人に言ってしまった。それだけ、その顔がうらやましかった。

 そうしたら、こんな風に返ってきた。

「そう? いま、本当に楽しくプレーさせてもらってるからね」

 自分の仕事を思い通りに全うして、全うし続けていることを表す男の充実の笑顔だった。

 空には、あと一晩でまん丸になろうとしている月。眼前に満面の笑み。

古くて新しい価値

「禁断の移籍」なんていうフレーズがあるが、移籍そのものが禁断だった時代があった。自分の強い意思でクラブを離れることを「裏切り」とするような風潮はJリーグ開幕前後には確かにあって、25年後のいまから振り返ればやや滑稽にも映る。

 当時はもちろん滑稽などではなく、選手もクラブもサポーターもあまり馴染みのなかった「移籍という行為」について、賛否が入り乱れて真剣そのものだった。25年という時を経て、いまでは移籍を繰り返すことで自らのプレーヤーとしての価値をぐんぐんと高めていくことは当たり前で、そこまで考えが至らずに呑気にプレーするだけの選手のほうがむしろ、向上心や自主性の欠如を指弾されるだろう。

 クラブのあるべき姿も変容してきた。「人は移ろうものである」ことを前提に、チーム編成はもちろん、育成から営業、運営、広報、将来の経営計画に至るまで、細やかに設計し実行していくことが強く求められている。

 だからこそ、「移籍しない」という選択が古くて新しい価値を示すことにもなってくる。「バンディエラ」という言葉が流布したのも、そうした背景によって「キャラクター」として切望されたからに違いない。

 もちろん、これまでも多くのバンディエラがピッチを彩ってきた。「ローカルスター」とか「フランチャイズ・プレーヤー」、あるいはシンプルに「地元の英雄」などとも呼ばれるこうした選手は25年のうちにどのクラブにも存在していて、例えば浦和レッズの福田正博がそうだし、清水エスパルスの澤登正朗、サンフレッチェ広島の森崎浩司などが思い浮かぶ。一時期クラブを離れたものの、やはり戻ってきてそのアイデンティティを心のクラブに捧げ、監督まで務めるという点では、ジュビロ磐田の名波浩やガンバ大阪の宮本恒靖が挙げられる。

 現役選手でも、鹿島アントラーズの曽ヶ端準、柏レイソルの大谷秀和、FC東京の米本拓司など数多く活躍している。ジュニアからずっと大宮アルディージャのために戦う大山啓輔はその最たるものだろう。

 そして、バンディエラの中のバンディエラとして、川崎フロンターレの中村憲剛の名を挙げて異論を挟む人はいないはずだ。

うちのケンゴ

年の頃は20代前半だっただろうか、知らない男性に突然話しかけられ深々とお辞儀をされて、こんなことを頼まれたことがある。

「うちのケンゴをよろしくお願いします」

 私が川崎Fを担当していた頃の出来事だから、2004年だったと思う。当時の練習場である麻生グラウンドで練習を取材したあと、ピッチから坂を登ってクラブハウスに戻る、その坂の途中でのことだった。その真面目そうな青年は、「記者の方ですか?」「どこの媒体の方ですか?」「誰の取材ですか」と立て続けに問いかけてくる。当時J2で戦い、J1昇格を現実的な目標として捉えたクラブの熱心なサポーターだった。このクラブの未来のために、選手が積極的にメディアに取り上げられることを願い、プレスパスを首からぶら下げていた私に「売り込み」をかけてきた、というわけだ。

 この話をすぐに中村に報告してみた。

「オレ、なんでか分かんないけど、みんなからケンゴとしか呼ばれないんですよね。小さな子どもだってケンゴ、ケンゴって言って寄ってくる。大人に向かって呼び捨てか、って」

 …とわざわざ不満そうな顔を作って、でもうれしそうに笑う中村の顔はいまでもすぐに思い出すことができる。

 あれから15年がたったいまでも、川崎Fのサポーターは「中村選手」なんて呼んだりしない。よそよそしさは似合わない。老若男女、憲剛はケンゴ。一体、どれだけ愛されているのか。

 最初によく話をさせてもらうようになったのは、読書の話がきっかけだったように記憶している。当時は私もいくらか小説を読むことがささやかな楽しみで、同じく読書が趣味であると公言していた中村とお気に入りの作家や作品について意見を交わしたりした。

 この時点でもう、珍種である。申し訳ないが、読書に没頭するプロフットボーラーに会ったのは初めてだった。中村はこちらの本の趣味趣向に耳を傾けるだけではなく、自分のそれを勧めてきたりもする。ボールとはまったく関係のないところで会話が成立したのだ。

 それからは顔を合わせるたびに「最近のお気に入りは?」と挨拶がわりに読書情報を交換するようになり、もちろんそこからサッカーの話になっていった。そうして交わした言葉をサッカーマガジンで記事にまとめていった。

キリンでしょ、キリン

 読書家だからなのか、記憶力も異様に鋭い。数年前に顔を合わせたときには当時のインタビュー記事に話が及び、「キリンでしょ、キリン」と言われてきょとんとしてしまった。「なんだ、忘れてんの? オレは覚えてるのに!」と突っ込まれてもまだ分からず、「記事のタイトルだよ。『キリンの成功物語』でしょ!」と言われてようやく、ああそうかと思い出した。

 プレーを見ていて、キリンに似てるな、と思ったのだった。背筋が伸びて、高いところから俯瞰するかのように広い視野を持っている。だから、キリン。

 2005年2月1日号に掲載した、J1への挑戦を控えたタイミングで行われたこのインタビューで、中村はこんなことを話している。

「レベルの高い中でプレーするともっと伸びるんじゃないかと。希望的観測ですけど(笑)、早くやってみたい」

 もうご存知のように、「キリンの成功物語」は希望的観測をはるかに超えることになった。2005年からJ1で堂々たるプレーぶりを見せると、Jリーグベストイレブンには2006年から合計で7回も選ばれていて、2010年には日本代表として南アフリカ・ワールドカップに出場、ベスト16のメンバーとなった。2016年にはJリーグ最優秀選手賞を史上最年長で受賞し、そしてついに、2017年にJ1を制覇するに至ったのである。

 これだけでも歴史に残る選手であることは間違いないが、唯一無二の存在としてこの男を際立たせているのが、クラブの独特のプロモーション活動を最前線で引っ張っていることだ。教科書とかバナナとかおフロとかジャスティスとかBKBとか、とにかく数限りなく、他のクラブでは見られないオリジナリティーあふれる「おもてなし」を心から楽しんで提供しているのだ。ツイッターやブログの更新だってお手のものだ。

 この人以上にお客さんを楽しませるJリーグMVPを私は知らない。

物語はまだ、続いているのだ

 2018年8月25日、J1リーグ第24節・ベガルタ仙台戦。自らのゴールで1−0の勝利をもたらした中村は73分で「お役御免」となったが、首位を走り続けるサンフレッチェ広島に食らいつく意地の勝ち点3だった。

 ルーキー時代からその成長を見守っている広報部の熊谷直人さんと並んで、テレビのインタビューによどみなく答える中村を見つめていた。しゃべり、うまくなったなあ。

「ここ最近、70分くらいで交代することが多いんですよね。本人はもちろん90分やり切りたいと思っている。でもサッカーは70分からの時間帯が一番しんどいみたい。そこを本人が割り切って、出場している時間を120パーセントの力でやっている。もしかしたらいま、プレーしている時間帯が一番充実しているかもしれませんね。近くで見ていて楽しそうだから」と熊谷さんの言葉に熱がこもる。

 やはり、体が動くのだ。しかも、プロ16年目のいまが一番。

「自分たちでボールを握って点を取りたかったけど、できなかった。でも、僕たちには去年の成功体験がある。だから、苦しいときにこういう形で勝ち点3を取ることも重要なんだよね」

 難しかった仙台戦を、中村はこう振り返る。ディフェンディング・チャンピオンとしての自信。フィジカル・コンディションのかつてないほどの充実。高い技術を結集し、ボールをつないで戦うことのできる仲間たち。物語が終わりを迎える気配はない。

 だから、いい顔をしているのか。

 仙台に勝ったのは、満月の前夜のことだった。中村憲剛ほどのプレーヤーであってもまだ「満月」に至ってはおらず、37歳のいまでもまだ輝かしい成長の途上にあることを示しているかのようだった。

 Jリーグもまた、同じ。百年構想の先行きは、まだ長い。