※写真は柏が2010年J2優勝を決めた第36節・横浜FC戦(○2-0)
Jリーグの創設25周年を記念して、当時を知る記者が四半世紀を振り返っていくこのコラム。6回目の今回は、『サッカーマガジン』2018年8月号でも特集しているJ2リーグの意義について考えてみる。折しも盛り上がりを見せているワールドカップでも、日本代表に「J2経験者」が選ばれて活躍中。20年目のシーズンを迎えているJ2が、Jリーグ全体にもたらしている多様性は本当に素晴らしい。
文◎平澤大輔(元サッカーマガジン編集長) 写真◎J.LEAGUE PHOTOS
よりリアリスティックなリーグ
世界がこんなにもワールドカップの虜になっているというのに、私が何気なく「そういえばさ、昨日のスペイン見た?」と聞くと、その人はこう返してきた。
「あ、ごめん。いま、それどころじゃない…」
そう、日本にはいま「ワールドカップどころじゃない」サッカーファンがいる。
J2リーグに所属するチームを応援する人々だ。
もちろんご存じだと思うが、ワールドカップの期間中であっても変わらず、日本ではJ2リーグが試合を消化している。「それどころじゃない」と言ったその人は、本当はワールドカップも存分に楽しんでいるから、その言葉は照れ隠しみたいなものだけれど、とにかくそんなJ2について考えてみることにしよう。
J2リーグが始まったのは1999年。今年は20度目という節目のシーズンだ。2014年からはJ3もできたので、現在このリーグで戦う22チームはJ1に昇格するために、最低でもJ2に残留するために戦っている。
そんな激しい競技性が担保されることを前提として、J2の意義はほかにもたくさんある。まずはもちろん、個々のプレーヤーの成長だ。J2でプロデビューを果たし、試合という最上の経験を重ねて羽ばたく選手は数知れず。ロシア・ワールドカップに臨んでいる日本代表でも、ご存じの通り、香川真司がセレッソ大阪で技を磨いた(J2では2007年~2009年)。
J1でプレー機会が限られ、チャンスを求めてJ2に飛び込む選手も多い。同じく日本代表で例を探せば、乾貴士がそうだ。横浜F・マリノスからC大阪に移り、J2では2008年、2009年に香川らとプレーして大活躍、のちにドイツ、そしてスペインに渡った。
成長という点では、監督も当てはまるだろう。最近の例で言えば、名波浩。2014年途中から古巣のジュビロ磐田で初めて監督としてJ2で指揮を執ると、自らももがき苦しみながら2015年に2位となってJ1昇格。その後も中村俊輔や大久保嘉人というビッグネームを獲得して話題性と実利の両方を獲得しつつ、若手も成長させるという、独自のプロデュースのセンスを生かした手腕が光っている。
J2では選手のスタイルやプレーモデルに多様性がある。相手の特長を消すことに重きを置くチームがあるかと思えば、流行のスタイルをJ2仕様にして落とし込むチームもある。対戦相手によって変幻自在にプランを調整するチームがある一方で、逆にまったくブレずに貫き通そうとするチームも。よりリアリスティックなリーグだからこそ、その「違い」が磨かれ、明確になっていく。エッジが効いている。この中で選手も監督も痛いほど揉まれていく。
「2部リーグ」としてのJ2の存在意義は、まさしくこのカラフルさにある。このことが日本サッカーに深みや奥行き、広がりを与えているのだ。
攻撃的フットボール・川崎Fの萌芽
そんな成長の基盤となるのが、ピッチ上における「チームとしての振る舞い」である。クラブのアイデンティティとも密接に関わっているので、いまこの瞬間から100年後まで、自分のクラブが地域の人々とともにどう生きていくのか、という決意の表れでもある。
例えば、川崎フロンターレ。ファンを魅了する攻撃的フットボールは、J2で戦っていた石崎信弘監督時代、若き中村憲剛と快速FWジュニーニョが加わり、我那覇和樹も活躍した2003年ごろには、すでにその萌芽があった。引き継いだ関塚隆監督が2004年に史上初の3ケタ勝ち点となる105ポイントを獲得してJ1に昇格させると、その後は風間八宏監督らの歴代指揮官が独自の解釈を加えて磨き上げ、鬼木達監督がついに2017年のJリーグ制覇を成し遂げた。
例えば、湘南ベルマーレ。2000年代にJ2降格とJ1昇格を繰り返す苦しみの中から、曺貴裁という情熱の塊のような漢を指揮官に得て「湘南スタイル」を生み出した。攻守の境を取り払い、ハードワークをしない者はピッチにはおらず、強く、速く、たくましく、一体感にあふれるフットボールだ。移籍によって主力選手を引き抜かれようとも、このクラブには魂が宿った。決してお金で買えないものを手に入れたのだ。
例えば、サンフレッチェ広島。2002年と2007年、二度のJ2降格にもがきながら、ミハイロ・ペトロヴィッチという鬼才が監督に就任すると、パワフルに改革を続けて生まれ変わり、2009年からJ1に戻った。2012年、森保一に監督が引き継がれると、前任者のサッカーをベースに適切な微調整を加えてバランスに長けたチームとなり、J1優勝。さらに翌年に連覇を果たすと、2015年にも日本一と黄金時代を築いた。
例えば、ガンバ大阪。名門の誉れ高き西のビッグクラブも、2011年いっぱいでの西野朗監督の退任とそれに続く混乱に端を発し、2012年に降格の憂き目にあった。そこで、J2で戦う2013年の指揮を長谷川健太監督に託した。主力の多くがチームに残ったことも大きく、遠藤保仁、今野泰幸の日本代表組を中心に1年でJ1復帰を果たすと、復帰1年目の2014年にJ1リーグ、リーグカップ、天皇杯の3冠を獲得する偉業を達成した。
J1から降格したチームが、J2という舞台でもう一度真剣にクラブとしての「生き方」と向き合い、新しいアクションを起こしていく。そんな例を中心にざっと振り返ったが、私にとっての「ベストインパクト」は、このクラブだった。
柏レイソルである。
VITORIA、継続。リスペクト。自信。準備。
驚きのもとになったのはもちろん、「J2から復帰して1年目でJ1リーグを制覇した史上初のクラブ」という事実なのだが、それだけで物語が終わらなかったから、記憶は強烈さを増した。リーグチャンピオンとして開催国枠でクラブワールドカップに出場し、「世界4位」にまで駆け上がった、あの疾走感──。
柏は2009年のJ1で16位となり、翌年にJ2で戦うことになったが、監督は代えなかった。ネルシーニョは2009年途中から指揮を執り、結果として降格させてしまったのだが、クラブの判断は「続投」だった。2005年、最初に降格した後にクラブの大改革が行なわれ、正しい道に進むための意識づくりが進められていた。だから、二度目の降格という現実を前にしても勇気を失わず、監督のクビをすげ替えることがすべてを解決する魔法になるわけではないことをよく分かっていた。所属選手の多くがチームに残る決断をしたのも、そんなクラブの新しいポリシーがあってこそだった。
こうして2011年、23勝3分け8敗、65得点・42失点、勝ち点72という成績でシーズンを駆け抜け、柏は初めてJ1を制することになる。
当時のサッカーマガジン優勝記念号に、このチームの象徴的存在だった北嶋秀朗が手記を寄せている。
「俺、今年のチームが愛おしくて仕方ないんだよ。何でこんな素晴らしいチームなんだ、って思うんだ」
(2011年『週刊サッカーマガジン』別冊新春号 J1リーグ優勝記念号 柏レイソル2011シーズン総集編 より抜粋)
ネルシーニョ監督が選手に自信と誇りを取り戻させた様子がよく分かる一言だ。
先発メンバーが34試合で27通りという組み合わせを操り、GK菅野孝憲、DF近藤直也、MF大谷秀和、MF栗澤遼一、MFレアンドロ・ドミンゲス、FW北嶋秀朗らを中心にしながら、若手も正当に競わせる、極めてロジカルなチームマネジメントを披露した。その結実が、J1制覇とクラブワールドカップ4位(バルセロナにメッシがいて、サントスにネイマールがいた、あの大会!)だった。
ネルシーニョ監督自身は夢のようなシーズンを、同じく優勝記念号の特別手記の中で次のように振り返っている。
「(承前)J2に降格してしまいました。私はその過程を通じて、レイソルというチーム全体の、考え方や環境を変える必要があると感じました。そのために“VITORIA(ヴィトーリア=勝利)”という言葉を使って、意思統一を図ったのです」
優れたリーダーは、優れた言葉を知っている。ネルシーニョの場合、仲間の心をつかむ言葉が「VITORIA」だった。続けてこう記している。
「シーズン終盤、『特別な策はあるのか』『どうすれば優勝できるのか』とよく尋ねられましたが、われわれには新しく始めなければならないことだとか、新しい心構えなどは必要なく、これまでのことを継続するだけでした。ゲームでは、まずはプレーを楽しむこと。もちろん守備の厳しさ、切り替えの速さ、アグレッシブな判断は忘れずに。簡単に勝てる相手は一つもありませんし、相手を尊重することも大切ですが、いつでも自分たちのペースで進められるという自信と、その準備を欠かさないこと。選手には常にそう説いてきました」
継続。楽しみ。厳しさと速さと判断。相手へのリスペクト。自信。準備。この短い文章の中に、チームを高みに引き上げるためのキーワードがたっぷりと詰まっているのが分かるだろう。
柏のサポーターは愛すべき日立台のスタンドに「柏から世界へ」の横断幕を晴れやかに掲げ、歌う。そのクラブコンセプトが成功したのだという実感を楽しみたければ、酒井宏樹を見ればいい。柏の一員として2010年にJ2でプロデビューを果たし、右サイドバックとして2011年の優勝の原動力となり、のちにドイツに渡り、フランスに移り、そしていま、私たち日本人の代表として、ロシア・ワールドカップという世界最高峰の舞台で堂々と、臆することなく、伸びやかに戦っている。
そう、J2から世界へ、なのだ。