なでしこリーグの前身、日本女子サッカーリーグの開幕から現在までレフェリーとして携わる吉澤さん。女性審判の間では「レジェンド」と呼ばれ、尊敬されている

なでしこリーグが今年、30周年を迎える。1989年、日本女子サッカーリーグ(愛称:JLSL)の創設以降、時代の波にもまれながらも、選手をはじめ指導者や多くの関係者の情熱がリーグを支え続けてきた。情熱をもってリーグを支えてきた「紡ぎ人」の想いを綴る本連載の第3回は、なんとリーグが始まる前に審判のライセンスを取得していたという、女性審判の草分け的存在、しかもいまだ現役で笛を吹いている吉澤久恵さんにご登場いただいた。

文◎江橋よしのり 写真◎榎本郁也、BBM

悔しいから続けられる

私が4級審判員の資格を取ったのは1988年。日本女子サッカーリーグが発足する前年のことです。きっかけは『サッカーマガジン』なんですよ。大学時代、サッカーマガジンで審判講習会の情報を見ました。当時、私は男子サッカーを年間200試合も見にいくようなマニアでしたので、「サッカーに関わる資格を持てたらいいな」という軽い気持ちで講習を受けに行きました。

日本女子サッカーリーグの初年度に副審(当時は線審と表現)を担当し、2000年に女子1級の資格を取ってからは主審も担当するようになりました。30年間途切れることなく、今もピッチに立ち続けていますが、リーグ開幕から現役を続けている選手は一人もいないので、そういう意味で30年間現役はどうやら私だけのようです(笑)

私たち審判員は、自分をアピールする必要はなく、黒子に徹することが一番です。選手が気持ちよくプレーできる、ケガなく安全にフェアにプレーできる、 落ち着いてプレーできる、そういう環境を整えてあげるのが私たちの役割です。

時には選手やサポーターの感情の矛先がレフェリーに向かうこともあります。でもそれは、選手が真剣にプレーしているからこそですし、選手とともに戦うサポーターの気持ちの表れだと思っています。むしろ、判定に対するリアクションが全くなくなってしまうと、審判にとってフィードバックの機会も失われることになります。ですから異論が上がっているような状況は、辛いながらも審判にとっても必要なことだと受け止めています。

「審判って大変ですよね」とよく言われます。確かに大変なこともありますが、私はこれまでやめたいと思ったことは一度もありません。本業は別にありますので、お金を稼ぐためにやっているわけでもありません。ただ、「やりたい」「その場にいたい」という気持ちが私の中でずっと続いているんです。

今でこそ、女子サッカーの環境や女性審判員の資格制度などが整ってきていますが、私が審判をやり始めた頃は、女子サッカーも女性審判員も一からスタートを切った時期でした。ですから、国際大会に派遣されたり、FIFAに登録されたりと、自分がイメージすらしたことのない世界に、背中を押されてどんどん飛び込んでいくことができました。好きなサッカーに関わりたい、という単純な気持ちで取った資格が、私の進路をどんどん広げてくれたのです。

今後についてですが、30年以上続けてきた今でも「やり切った」という感覚が全然ありません。どんな審判でも完璧な試合などないでしょうし、私自身もミスが一つもなかった試合なんてないし、今後もあり得ない。昔も今も、試合の後は「あのシーンはこうしておくべきだった」と悔しい思いばかりです。でも、悔しいと感じるから、次はもっと頑張ろうと思えるし、その繰り返しが楽しい作業なんです。悔しいからこそ、やめる理由がないんですよ。

今年で節目の年を迎えるなでしこリーグですが、リーグが続く限り、私も選手たちと一緒にどこまでも走り続けたいと思っています。

思い出の1シーン

1998年の前期リーグ、日興證券と読売ベレーザ試合です。とにかくハイレベルで、お互いが持ち味を出し切って攻め合う展開。最終的には5-4で日興證券が勝ったのですが、負けたベレーザの澤穂希選手が試合後に「こんな楽しい試合は初めて!」と目を輝かせて言ったんですよ。試合展開もさることながら、その言葉と表情が忘れられません。

吉澤さんが最も印象に残っている試合だという、1998年のリーグ戦。当時、澤穂希はまだ19歳ながらキャプテンマークを巻く。この翌年、なでしこリーグを離れ、アメリカの女子リーグに挑戦することになる

よしざわ・ひさえ
1966年11月9日生まれ、東京都出身。大学時代までサッカーを続け、1988年に4級審判員のライセンスを取得。その後、国内外を問わず主審・副審として活躍し、2000年シドニー五輪で日本人初FIFA主催大会決勝の審判として副審を務めた。同年、AFC年間最優秀副審賞受賞。現在も現役審判員として活動中。