連覇狙う現役世界王者ドイツが36年ぶりにワールドカップの初戦で敗れた。メキシコの戦略にまんまとはまってーー。今大会でヨアヒム・レーブ率いるチームは、連覇を成し遂げ、史上最高のドイツ代表に近づくはずが、出鼻をくじかれたかっこうとなってしまった。
 これまで4度ワールドカップを優勝しているドイツは、過去にも最強のほまれ高い王者チームが存在した。今回は72年に欧州選手権を制し、74年のワールドカップの頂点に立ったドイツ(当時は西ドイツ)を紹介する。

文◎佐藤 景 写真◎Getty Images

皇帝ベッケンバウアーを擁し、クライフ率いるオランダを破っての戴冠。74年のドイツは世界にその強さを見せつけた

72年モデルをマイナーチェンジ

 74年大会の西ドイツは、ドイツのサッカー史上でも最強の誉れ高い72年モデルがマイナーチェンジしたチームだった。
 GKはゼップ・マイヤー、リベロにフランツ・ベッケンバウアー、ストッパーとしてゲオルグ・シュバルツェンベック、そして前線にゲルト・ミュラー。チームの背骨は、圧倒的な強さでヨーロッパを制したチームそのまま。
 72年のヨーロッパ選手権でベッケンバウアーとともに攻撃を指揮したギュンター・ネッツァーは控えに回っていたが、ボルフガング・オベラーツが代わりに攻撃を組み立てた。むしろ、守備でも力を発揮するライナー・ボンホフを新たに中盤に組み込んだことで、74年のチームの方が攻守のバランスが取れていた。
 72年モデルのような、相手にサッカーをさせない圧倒的なボール支配は見られなかったものの、守備の強度は増していた。実際、苦戦が予想された2次リーグのポーランド戦やユーゴスラビア戦でも、マンマークで相手を自由にさせず、1対1の攻防でも相手に勝り、競り勝っている。
 確実に急所へとボールを運び、最後にミュラーが仕上げる攻撃パターンは相変わらず強力で、このゴールへの方程式を持っていたがために、ピッチ上の選手たちが選択を迷うこともなかった。何をすればゴールが生まれ、どう動けば、ゴールを封じられるかを知っていた。
 74年大会を振り返るとき、革新的なオランダが主役として取り上げられるが、現実にカップを掲げたのは、西ドイツである。彼らは彼らにしかできない戦い方で、頂点にたどり着いたのだった。

『成功』だった東ドイツ戦の敗戦

 1次リーグでは、ことごとく相手が引いて守りを固めるために苦戦を強いられた。初戦のチリ戦では、ほとんど敵陣で過ごしながら、引き分け狙いの相手に手こずり、攻撃的な右サイドバック、パウル・ブライトナーのミドルシュートで辛くも勝利を収めている。その結果、国内ではフィニッシュワークに工夫がないとの批判も起こった。
 続く、初出場オーストリアとのゲームは2-0でものにするが、3戦目の東ドイツ戦は、この大会で唯一の敗戦を喫している。ユルゲン・シュパルワッサーにまんまとゴールを奪われた。冷戦下にあった時代の東西ドイツ対決であり、当然、西ドイツにとっては負けられない一戦だったが、ただし、この敗戦が重要な意味を持ち、西ドイツにとって好結果を招く。
 同日の昼にブラジルがユーゴスラビアに次いで1次リーグ2組で2位になることが確定しており、翌日にオランダがブルガリアに勝つことは濃厚だった。つまりその状況は、西ドイツが東ドイツに勝つか引き分けてポイントを得ると、2次リーグで強豪ブラジル、オランダと同組になることを意味していた。それを避けるには、東ドイツに負けた方がいい。
 意図的か否かは分からないものの、ともかく西ドイツは、1次リーグを2位で抜けて、2次リーグはポーランド、スウェーデン、ユーゴスラビアと同組になる。そこで3連勝し、ファイナルに進んだのだから、結果的には、東ドイツ戦の敗戦は「成功」だった。

派手さはなく脆さもなく

 同大会のもう一方の主役、オランダとのファイナルは、思わぬ形で始まった。開始1分に西ドイツは一度もボールに触らぬままに失点する。ウリ・ヘーネスがエリア内でヨハン・クライフを倒し、PKを献上してしまう。ヨハン・ニースケンスに決められた。 
 だが、この一点でオランダのリズムが狂い、西ドイツの闘志に火がつく。「あとは観衆を楽しませればいいと思っていた」とオランダのヨニー・レップが振り返ったように、オランダは安心し、そして西ドイツはゴールを奪うべく前進した。
 逆境を跳ね返すのは1954年の決勝、ベルンの奇跡で知られる逆転劇以来(0-2からハンガリーを下す)、すっかり西ドイツの伝統となっていたが、ここでも驚異的な粘りを発揮する。FWホルスト・ヘルツェンバインがビム・ヤンセンに倒されてPKを獲得。これをパウル・ブライトナーが冷静に沈めて、前半のうちに同点とすると、前半終了間際にはミュラーが反転シュートで逆転に成功した。
 その後がまさに、西ドイツだった。厳しいマークでフォクツはクライフをピッチ上から消し去ったのは象徴的だった。西ドイツの選手たちは、時にマークを捨てて攻め上がる速さも、ひとたびボールを失って帰陣するスピードでも、こと走力という点においてオランダを圧倒する。
 この決勝に至るまでの道のりで、見事なポジションチェンジを繰り返し、ピッチを縦横無尽に駆けてゲームを支配したオレンジのユニフォームは、西ドイツの前、散発的に存在するだけ。連動することも輝くこともなかった。クライフが消えると同時に、自慢のトータルフットボールが機能不全に陥った。
 対照的に西ドイツはベッケンバウアーを中心にチームが回転していた。皇帝と呼ばれた男は、東ドイツ戦後にピッチ内外の全権を握ったとされている。もはや監督ヘルムート・シェーンも出る幕はなく、フォクツに、クライフを徹底マークするように指示したのも、彼だった。ブライトナーに「独裁者」とさえ言われた男の存在はしかし、チームを正しい方向に導くことにもつながった。
 各選手がポジションを換え、ゲーム中に役割を変えながらプレーすることで世界に衝撃を与えたオランダに対し、与えられた役割を各選手が全うし、その上で状況に応じたプレーを見せたのが西ドイツと言えるだろう。オランダのような斬新さはなくとも、そこには堅実さがあった。派手さはなかったが、脆くもなかった。
 66年大会は準優勝、70年大会3位とあと一歩で涙をのんできた西ドイツは、自国開催の74年でついに栄誉に浴した。タフなメンタル、圧倒的な走力、技術、インテリジェンス、絶対的なストライカー、そしてカリスマの存在――。
 1974年の西ドイツには、チャンピオンに必要とされるもの、そのすべてがあった。